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まとまりのない言葉たち

投稿するつもりのない下書きの記事を自分の備忘録として3時間くらい書き続けてた。

そしたら途中でなんか違うなってなった。

うまく言葉にできないんだけど。
渦中にいるとき、まだ途中経過の中にいるとき、その段階で伝えていくってことが、わたしにはできない。

その渦中とか途中経過とかも、ストーリーとして見せていけばいいじゃん。成長過程を見せていってファン増やしていけばいいじゃんみたいな考え方ってあると思うんだけど(あ、ビジネスを視野に入れた発信の話です)

例えば、「人生全部コンテンツ」って言ってずっと発信してらっしゃるはあちゅうさんとか、他にもインスタとかで発信してる人って、そういう人多いよね。

「途中経過」なんて言ったら、人生が終わるまでずっと人生の途中経過だし、渦中なのもわかってる。

完璧に整ってから、攻略してから、成果を出してからって考えてたら、いつまでも始められないってのもわかってる。

でもなあ。
それができないんだよなぁ。
性格的に。

これがいわゆる完璧主義ってやつなんだろうか。


そんなことを、今日、自分のためだけに書いた下書きをつづりながら、その途中で思った。

下書きは消さないけれど。消したいなって思った。バカらしくなって。

なんか。

まとまりがない言葉たち。


今日、10月に入って1週間以上経ってようやく自分の中で課題として設定してた繊細さんのワークブックに着手できた。

いろんな章を飛ばして、仕事に関する章をやった。
過去の経験とかを、自己内観して、書き出すことで整理してみたらわかったことがあって。

距離感って大事だなってこと。


わたしは愛が深い人間。共感力も高いし、人の求めるニーズを察する能力も高い。仕事も結構なんでもそつなくこなせちゃうタイプ。

その会社が好きだから、その会社の社員さんたちが好きだから。そんな気持ちで、「好きだから」って気持ちで、役に立てることが嬉しくて、「ありがとう」って言ってもらえることが嬉しくて、どんどん貢献してしまって。

気づいたら、当初の契約とは遠く離れた業務量や業務内容になってしまってることがよくあった。特に事務系の仕事してると。

明らかに、やってる仕事内容や量、背負っている責任と、契約の内容と賃金が見合っていない。そのことを指摘すると、簡単に切られたこともある。

ショックだったなぁ。

でも、今日深掘りして思ったのは、愛を注ぐ量や場所、人は、ちゃんと適所適材で調整しないといけないってこと。

相手が悪いとか、その会社が悪いとかじゃなくて。その距離感というか、境界線を明確にできていなかった自分にもある種の責任があるんだよなって。


相手が求めてることに気づくからって。やって欲しいことがわかるからって。それを解決できるからって。なんでもやっちゃうのは、良いことじゃないなって。

結局、それはある種の自己顕示欲だったり、認めてもらいたいと思ってしまう承認欲求だったりするのかもしれない。愛着というところに帰結する気がする。


「契約内容・賃金・時間」
この3点で構成される三角形の中からはみ出さない程度に、自分の共感力や、貢献したい、助けたい、サポートしたい、愛を注ぎたいっていう欲求のパーセンテージを調整するって大切なことだなって。

ビジネスは、どこまでお客様や社員さんと仲良くなったとしても、ビジネスだし。親友じゃないし。身内じゃないし。

その線引きがちゃんとできないと、結局、自分がひとり消耗して、そうして相手に勝手に絶望したり、冷めたり、がっかりしてしまう。


それはビジネスの場だけじゃなくて、人生のどんな分野においても同じだなって思って。子育てでも、友人関係でも、家族でも、パートナーシップでも。

わたしの中には、確実に優先順位的なものが存在している。それは、今回メンタルを崩したときにはっきりと気づいた。頼る先って、本当に少数で。昔からの地元の友達ばかりだったんだよね。

ただ、この優先順位的なものが自分の中でまだぼんやりしてて、明確化してないなっていうのが問題というか、境界線のあやふやさの原因なのかもなって。


わたしの中では基本的に「(人として)好きな人」と「それ以外の人」しかなくて。「それ以外の人」の中には、どうでもいい人、嫌いな人、認識してない人とかが存在するんだけど。

基本的に、自分の人生の中に入ってる人の98%くらいが「(人として)好きな人」に入ってる。

(人として)好きな人」という大きな丸の中に、「知り合い」「友達」「親友」「身内(心友)」「家族」みたいな円がたくさん内包されていて。「身内(心友)」と「家族」は、重なり合う部分もあるんだけれど。

でも、その大きな円の中にある小さな円たちの境界線、誰がどこに属しているのかっていうのが、自分の中でぐちゃぐちゃになったまま、ここまで生きてきたのかもしれない。そんなことを、ふと思う。


「身内(心友)」や「家族」に注ぐ深い愛情を、同じだけの熱量で「(人として)好きな人」にも注げてしまう体質(性格?)だからこそ、ちゃんとそこの線引き、ランク付って言ったら言い方は悪いけど、でもそういうカテゴリ分けっていうのはしていかないといけないよなって。

そこを細分化せず、全部まるっと「好きな人」として扱っちゃってたから、仕事とかで失望しちゃったり、業務内容や業務量と賃金が比例してないみたいな状況に陥ってたんだなって思うし。


ここはまだ深掘りしてないんだけど。

自分の事業をやってたときに、いろんな人に自分の中のプライベートな境界線を踏みにじられて、わかった気になって語られて、それで冷めてガンッとシャッター閉めるみたいなことになってしまってたのは、こういう自分の境界線のあやふやさっていうのもあったのかもなーって。


結局、なんの話?って感じなんだけれど。
この境界線のあやふやさと、途中経過や過程を発信できないってところに、なにかつながるものがあるような気がしてるのかなあ?

まだ表面化してないけど。
多分、だから、こうやって同じ記事の中で、このふたつのことを一緒に書いてるんだろうな。


なんだか。
よく分からないや。

10月に入ってからのわたしは、気分の落ち込みはそこまで激しくないけど、とりあえずやる気がないって感じです。すべてに対して。

まあ、そういう時期もあるよね。
今はそんな感じでいいんじゃない?って思う。
それも過程だし。

やっと、休みモードに入れたのかもしれない。


そんな、なんのまとまりもない、言葉たちの散文。

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