それでも「関わり」続ける

「関わっている」という言葉、入管法改悪反対デモにおいて頻繁に聞こえてくる言葉だ。
移民や難民について、私もまったく関心がなく、むしろ考えないようにしていた節もある。ICU高校に入って、私のやりたかった「国際的なこと」という夢は帰国生の多い環境によって「メジャーなもの」となり、いつからか国際的なことを無視して日本についてを意図的に考えている自分がいた。
移民や難民についても、国際的なものであり、外国と日本についてのことなので、考えてしまうことを避けていた。

しかし、キリスト教講演会で、入管についての講演が行われ、圧倒的にあり得ない問題が次々と語られていく中で、自分もこの問題を考えなくてはならないということを心の底から感じた。

日本国籍を持って、参政権を持っている限り、この問題に関わり続けている。よくある語りだ。関わりとはいったいなんだろうか。私は選挙権を得てから、一回も自民党を選んだ記憶はないし、なんなら私が参政権を持っていない時に「大人たち」が選んだ政党であって、「私たち」はその影響下で生きているのではないかとも考える。移民や難民の人たちや外国人に何か影響がある問題が発生した時に、参政権のある私たちの選んだ政治家がやったこと、すなわち私たちの選択と言われる。もしそうならば、つい最近に選挙権を得た私も、外国人同様に、「その政治家を選んだあなたたち」の被害を受けているのだ。そう言ってやりたい。

「関わっている」。そう言うのは簡単だ。関わりは目に見えないから言語化をすることで、その関係性を可視化する。関わりを可視化することで、その問題での登場人物を増やすことができる。恣意的と言ってもいいのかもしれない。


ノブレスオブリージュを座右の銘にしている私がなぜ、関わりという言葉を取り上げているのか。
それは、意図的に関わり続けることの意味を考えているからだ。本当はそこに関わりなどないのかもしれない。「共生社会」や「グローバルな社会」と言われ、他人に関わりを求められる社会。
「関われ」と言われて、関わりを強制されているように感じてしまうかもしれない。

それでもなぜ関わることをしなくてはいけないのか。それは、そうすることなしには社会が変わることはないからだろう。ありきたりな言葉になってしまうことが悔やまれる。
しかし、やはり個人主義化が進んだ今の社会において、関わらないことは傍観者の役割、つまり<加害>と同じなのではないか。

だから関わり続けること、そしてそれを実感し続けることが、今を生きる私たちにとっては必要なことなのだ。

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