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岡部えつ|エッセイ|Essay

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不定期ですが、週に1本を目指しています。
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#コラム

妖怪"誤解"。口癖は「誤解させてすみません」

先日、小学校3年生の姪を連れて、『水木しげるの妖怪 百鬼夜行展 』に行ってきた。幼い頃から鬼や閻魔大王が大好きな彼女は、最近妖怪にも興味を持ち始めているのだ。 わたし自身はその年の頃、アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の第2シリーズをリアルタイムで観ていた世代で、アッコちゃんやサリーちゃんと同列に捉えていた妖怪を、好きか嫌いかで考えたことはなかった。 妖怪にあらためて興味を持ったのは、おそらく1991年にNHKで放送されたドラマ『のんのんばあとオレ』だと思う。この年の誕生日、友人にね

アンビエントな夜

荻窪ベルベットサンの、火曜日BARへ行く。 あっついあっついと言いながら入ると、先に来ていた友人二人と店長H氏が迎え入れてくれる。 この日はベーシストO氏が月に一度催している企画の日で、ステージには難しそうな機材とエレキベースが置かれ、抑え気味に氏の音楽が流れていた。 心地よいその音楽はアンビエント・ミュージックというもので、わたしはまったく詳しくないのだが、辞書を引くとブライアン・イーノが始めた環境音楽とある。 音楽知識の浅いわたしがブライアン・イーノの名を知ったのは確か

新宿午後八時

新宿に、20年近いつき合いになる馴染みの店がある。 まん延防止とかのせいで、17時開店だというのでその時間に行ってみると、案の定、客はわたし一人だった。 「まったく、夜8時からウイルスが出てくるってわけじゃないのに、愚策だよねえ」 座るなり御上(おかみ)をくさすと、 「でもね、お客さんも歳をとってきたせいか、17時オープンのほうが嬉しいって人も結構いるから」 店主はにこにこしている。 しかし結局他に客は来ないまま、以前なら飲み始める頃に、そろそろ店じまいという時間になった。

Fire Waltz --- スガダイロートリオ+東保光 at アケタの店

 彼の演奏は、上澄みの清らかな水面を見せてしんとしているわたしの、底を叩いて水を濁らせる。その挑発に揺さぶられ、もがいて自ら溜まった泥を掘り返すうち、キラキラ舞い光る砂粒の中から、重要な宝物を見つけ出すことがある。  そんなスガダイローのライブは、わたしにとって、気軽に行って聴いて飲んで酔って陽気に楽しめばいい、というわけにはいかないものだ。へこたれて干涸らびた状態で底を叩かれたら、ひび割れて壊れてしまう。  だからここ最近、彼の演奏を聴けなかった。新型コロナウイルスも含めて

 いつの頃からか、季節とは、これまでの時間を五感から想起させるノスタルジアのことではないかと思うようになった。  きっかけは、以前から夏になると現れる、心が過去の夏に紛れ込んでいく感覚、その、何万本という花の重石に圧迫されているがごとき息苦しさと官能を、何と表現すればいいのかと考えたことだ。ふと、それこそが季節というものではないかと思いついた。一旦思ったらもう、そうとしか考えられなくなった。  以来、風の匂い、空気の肌触り、風景、音、気配、そうしたものから過去を思い起こし、掻

コロナと友達と世界とピンチ

世界がコロナウイルスですったもんだしているこのとき、発熱してしまった。37.8℃。 まず、家族を含めて最近室内で長時間一緒に過ごした人たちに連絡をした。コロナ感染かどうかはわからないが、身近には高齢者もいるし、基礎疾患を患っている人もいる。感染を疑って行動するに越したことはないと、判断したのである。 幸い職業柄家にこもっていることが多い上に、ここのところ原稿の進みが悪く、ライブにも飲み屋にも出かけていなかったため、連絡すべき相手は数えるほどで済んだ。それにそもそも、友達も少

上を向いて歩こう、こんなときには。

新型コロナウイルスの英語表記は『novel coronavirus』だが、決して『小説・コロナウイルス』ではない。”novel” には、形容詞で ”新しい” ”奇抜な(original)” ”新種の” といった意味があるのである。 ところが気になることに、わたしの電子辞書にはその意味の前にカッコで ”(しばしばほめて)” とついている。”ほめて”とは、“いい意味で” ということであろう。つまりこのコロナは、いい意味で新しく独創的(original)なウイルスなのである。 ど

ピアノのこと

わたしがピアノを習い始めたのは、4歳のときである。 望んで習ったのではない。神戸から父の実家がある前橋に引っ越してきた丁度その頃、父の妹である叔母が、ピアノ教室を開いたのだ。 それでも父には、わたしにベートーベンの『エリーゼのために』を弾かせたい、という夢があったらしい。4年生か5年生でそれを暗譜したとき、感慨深げにそう言われた覚えがある。 一度暗譜した曲は、なかなか体から抜けていくものではない。わたしは『エリーゼのために』を、ずいぶん大人になるまで空で弾くことができた。

お弔い

父方の従妹が死んだ。死因は心不全ということだが、長年の持病の服薬と、少なくはなかったという飲酒習慣が祟ったのではないかと思う。 理学修士の学位を持つ才女で、最後まで子供に数学を教えていた。 年下が亡くなると心がざわついて落ち着かないものだが、親戚となるとさらに色々と考えてしまう。何しろ、彼女が生まれたときのことを知っている。子守りもした。よちよち歩きで宵の窓際に立ち、小さな指を天に向けて「のんのんさま!」と呼びかけた唇の、端に溜まったよだれのきらめきまで覚えている。 父方の

あきらめるな! あきらめろ!

嫌になって放り出そうとすると「簡単にあきらめるな」と叱咤され、手放すまいとしがみつくと「あきらめが肝心」と諭される。何故だか、そういうものである。 考えてみると、「まだあきらめるな」は若い人へ、「もうあきらめよ」はそうでない人へ向けて言われることが多い気がする。 つまり ”あきらめ” には、人生の残り時間が大きく関わっているということなのだろう。 確かに、まだやり直しがきくうちは簡単に切り替えようとし、もうやり直しがきかないとなれば執着するのが人の心理だ。ところが一歩引いた

下手と努力と憧れと

バレエ教室の発表会を見てきた。6歳になる姪が出演したのである。 発表といっても、彼女が所属する幼児クラスはまだやっと右と左を覚えたくらいの豆っ子たちばかり、一丁前のチュチュ姿でちょこちょことステージに出てくるだけで「可愛い〜」の声がかかるレベルである。 ところがしばらく見ていると、そんな似たような豆っ子たちの中にも、キラリと光る子がいることに気がつく。手足の動かし方、ポーズの決め方が、なんとなく他の子とは違って様になっているのだ。ああいうのを、持って生まれた「センス」というの

「恋多き」と「だらしない」

恋多き女と、男にだらしない女は違う。 同じように、恋多き男と、女にだらしない男も違う。……はずである。 しかしどうも、女の場合は「恋多き」は好意的に、「男にだらしない」は心底からの嫌悪感を持って語られるのに対して、男の場合は「恋多き」は好意的に、「女にだらしない」は憎めない欠点、あるいは色男の証明として語られることが多い気がしてならない。 つまり「だらしない」ことに関して、世間様は女には厳しく男には甘いように思えるのである。 実際、不倫が露見したとたん問答無用に迫害され排

嫉妬

勧められて、宮沢賢治の『土神と狐』を読んだ。綺麗な女の樺の木に恋をした無骨な泥地の土神が、同じく樺の木に恋をして器用に彼女の気を惹いていく小利口な狐に、激しく嫉妬し、破滅していく物語である。 読みどころは、正反対の性質を持つ狐と土神の対比と、土神が内に抱えた鬱屈の変化であろう。 狐は、樺の木を喜ばせたくて嘘をつくのを止められない。 土神は、神というプライドゆえに自分を押し殺す。 狐は樺の木に、訊かれてもいない知識をひけらかして悦に入る。 土神は樺の木に問いかけて、返事が望

大御所

どんな世界にも、大御所と呼ばれる人がいる。 その世界で長く活躍し、貢献をして尊敬を集め、また確固たる人脈を築いて権力を持ち、第一人者となった人である。 彼のお陰で、その世界は脚光を浴びる。お金も集まる。埋もれていた先人にも箔がつく。その世界に憧れる人が増え、押し寄せ、世界を膨らませていく。 大御所には後光が射している。その威光をたくさん受けて輝けば、出世できる。だから才能のないたくさんの人たちが、成功を求め、彼に1ミリでも近づくことに血道を上げ、すり寄ってくる。 一度輝きだ