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 いつの頃からか、季節とは、これまでの時間を五感から想起させるノスタルジアのことではないかと思うようになった。
 きっかけは、以前から夏になると現れる、心が過去の夏に紛れ込んでいく感覚、その、何万本という花の重石に圧迫されているがごとき息苦しさと官能を、何と表現すればいいのかと考えたことだ。ふと、それこそが季節というものではないかと思いついた。一旦思ったらもう、そうとしか考えられなくなった。
 以来、風の匂い、空気の肌触り、風景、音、気配、そうしたものから過去を思い起こし、掻き立てられている時間を、わたしは季節と呼んでいる。

 春夏秋冬それぞれにノスタルジアはあるが、あのむせ返るような息苦しさと官能は、夏にしかない。
 だからわたしは、夏が好きなのだろう。

 たとえばそれは、こんな記憶の断片にわたしを連れて行く。
 エアコンがなかった子供の頃、日当たりのいい二階の子供部屋から逃げ出して、家の中で一番涼しい玄関にテーブルを置き、広げた夏休みの宿題帳。
 夕方に外から帰ると、縁側に日焼けした素足を投げ出して、口や手をべとべとにしながら丸かじりした、冷たいトマト。
 空がゴロッと鳴ると、きゃあきゃあはしゃぎながら戸棚から出したろうそくとランタン。ざあっと降れば庭の土に残っていた熱も冷め、濡れた芝生の上を撫でた風が、涼しい空気を部屋に運んできた。
 風呂上がり、扇風機の風に当たりながら、母が切り分けてくれた西瓜にかぶりつくと、「夜中におしっこにいきたくなっちゃうから、1つにしなさい」と必ず言われたこと。
 夏休みで泊まりに来ていた従兄が教えてくれた、種飛ばし。
「あ、種を食べちゃった!」
「やーい。えっちゃんのお腹から芽が出て、鼻の穴から西瓜が出てくるぞ〜」
 嘘だと知りながらも、からかわれたことが悲しくて、半ベソをかいた。
「ほら、これを鈴虫にあげておいで」
 父になだめられ、食べ終わった西瓜の皮を持ってみんなで玄関へ行った。下駄箱の上のプラスチックケージをそっと開け、西瓜の皮を入れてやってから、薄暗い明かりの下、息を殺して見つめた、小さな黒い触覚の妖しいうごめき。
「さあ、もう寝なさい」
 促されて子供部屋へ行き、川の字に敷かれた布団の上を、妹と従兄と3人で転げ回った。その窓際に母が置いた、蚊取線香の丸い缶ケース。
「明日、キャンプに行くんだよ」
「テントで寝るんだよね」
「湖の中で、西瓜を冷やすんだって」
「一緒にカレー作ろうね」
 立ち上る煙が揺らめくのを見ているうちに、瞼が重たくなってくる。
 車の免許を取って間もない頃によく一人でやった、あてのないドライブ。窓を全開にして、国道をひたすらまっすぐ走るのだ。
 携帯電話など影も形もなかったあの頃、知らない街に入ると、鎖を解かれたような気分になった。
 カーステレオからはトム・ウェイツが流れていて、このままどこまでも行こうとわたしを誘った。信号で停まるたび、右肘を窓枠に載せて頬杖をついた。道路脇に連なる電飾がきらきらとボンネットを這い、早く早くとわたしを急かせた。しかし、何を急げばいいのかわからない。それがもどかしくて、カーステレオのボリュームを上げた。
 気が済んだところで、Uターンする。そのときは一瞬、気持ちが萎えた。しかし、往路よりもずっと短く感じる時間で見慣れた景色が見えてくると、どこかで安堵してしまうのだ。そんな自分がいやで、吸いたくない煙草に火をつけた。
 うんざりするほど毎日通る道にさしかかると、秋の予感とともに、永遠にどこにも行けないのではないかという不安で叫びだしそうになり、逃れるようにアクセルを踏みこんだ。

 たとえば窓を開け放した家の中を通り抜ける爽やかな風、素足で歩く廊下のひんやりとした感触、誰もいない校庭に漂う青臭い匂い、一番乗りしたプールの冷たさ、不穏な遠雷、それが聞こえた途端に重くまとわりついてくる空気、斬り込んでくる陽射しと濃い黒の影、車窓から吹き込む風に巻き上げられて頬を叩く髪、カーラジオから聴こえてくるピアノのメロディ、ぬるくなったビールグラスの下にできた水たまり、苛つく電話の音、蝉しぐれ、悲しい知らせ、遠ざかっていく電車の音、雨粒が幾重も滑り落ちる窓ガラス、変色していく暁の空。

 体が覚えているそうした夏の記憶が、夏がくるたびに繰り返し再生されて、わたしを陶然とさせ、掻き立ててきた。

 ところが最近、あの息苦しさと官能の時間があまりない。梅雨が開けたとたんに猛暑というふうに、気候が変わってからのことだ。
 一日中エアコンで冷やしていなければ病気になってしまうような日々が夏と呼ばれるようになってから、わたしの夏はどこかに行ってしまった。そうして毎年、冷房の風に当たりながらそれを探している。
 もう何度も、見つからぬまま秋になった。

(BGM :Frank Morgan 『Mood Indigo』)

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