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上を向いて歩こう、こんなときには。

新型コロナウイルスの英語表記は『novel coronavirus』だが、決して『小説・コロナウイルス』ではない。”novel” には、形容詞で ”新しい” ”奇抜な(original)” ”新種の” といった意味があるのである。
ところが気になることに、わたしの電子辞書にはその意味の前にカッコで ”(しばしばほめて)” とついている。”ほめて”とは、“いい意味で” ということであろう。つまりこのコロナは、いい意味で新しく独創的(original)なウイルスなのである。

どんな意味合いを持とうが、不気味であることに変わりはない。亡くなった人だっている。わたしは身近に高齢の母がいるし、感染は避けたい。しかしどうすればいいのか。
巷からマスクやエタノール製品やトイレットペーパーまでが消えていく中、わたしはいつもどおり、世間から隔離された仕事部屋に一人こもって仕事をしつつ、時折インターネットで情報をチェックしては、ため息をついている。

見えないから怖いのだ。
手に石鹸をこすりつけ、30秒数えながら泡を揉み、心の中で「殺菌完了」と決めて水で流す。しかし本当のところ、そこにウイルスがあるかどうかはわからない。はじめからなかったかもしれないし、まだ残っているかもしれない。
それでも世の中全員が、わたしと同様、心で勝手に「殺菌完了」と決め、次の行動に移っているのが現状だ。

では、見えれば怖くないのか。
たとえば、ウイルスがピンクだったとしよう。すれ違った人のマスクの隙間から、ピンクの霧がふわふわっと漏れ出ていたら、どうすればいい。デパートのトイレの便座が、ピンク色に染まっていたら。電車のあちこちに、ピンク色のしみができていたら。手を振りながら駆け寄ってくる友達の、手のひらもほっぺたも真ピンクだったら。

見えないものと、はっきり見えるもの、人はどちらを恐怖するのだろう。
愛らしい瞳をした人食いプードルと、血走った目でナイフを振り回しているジャンキーと、道端で出会うならどちらを選ぶ?

怖さのあまり、こうしてくだらないことばかり考えている。
これは自己防衛だ。人は恐怖の中にいるときこそ、ユーモアを発揮する。そして求める。恐怖する心にこそ笑いがフィットして、いつもならくすりともせぬものに、抱腹絶倒できる。
そうだ、恐怖が人にとって麻薬のようなものであることを、わたしたちはとうの昔から知っていたではないか。ホラー映画もシェットコースターも、それだから永遠に人気であることも。

とすれば、全世界の人々が恐怖麻薬でキマっている今こそ、芸術の出番ではなかろうか。スリルの中で研ぎ澄まされた感性が欲しているのは、冷静ではなく熱狂だ。真実ではなく馬鹿馬鹿しさだ。正しさではなく振り切れた何かだ。
劇場を、コンサート会場を、美術館を、閉めている場合ではない。役者やダンサーなら舞台をずたずたに踏み抜いて演じ、音楽家ならその音で雲を集め雷を起こし、絵描きなら世界中をピンクにペイントして回らずにどうする。
そして小説家は書くであろう、いい意味で新しく独創的なウイルスによるディストピア物語、『小説・コロナウイルス』を。
怖さのあまり、こうしてまたくだらないことを考えている。

しかし、わたしがどれだけくだらないことを考えても、ウイルスはにやりともせず、何色であろうが人間の視力の及ばぬ小ささなので関係なく、今もどこかを飛んでいる。
彼らも生物である以上、生き延びようと必死なのだ。人間を脅かしているなどという自覚は微塵もなく、彼らにとっての正しき繁殖をしているだけなのである。
そう思えば、小さな小さな彼らが、あっと言う間に地球上で勢力拡大をしている様は、おみごとという他ない。

小よく大を制すと言えば、今日から春場所が始まる。
会場では観客が肩を触れ合うほど密集して座り、声を上げて応援し、飲食もするだろう。そこに、ピンクの粒たちが浮いていないとも限らない。
などと考えていたら、今場所は無観客でやるという。あの大きな会場で、あの熱戦が、静寂の中で行われる。目にも見えない小さな粒のために。
また、怖くなってきた。怖くなってくると、くだらないことが頭をよぎる。

手洗いは石鹸で30秒が推奨されているが、ハッピーバースデーの歌を2度歌うと、ぴたりその時間になるという。しかし、同じ歌を2度も歌うのは退屈だ。
代わりはないかと考えていると、『上を向いて歩こう』のAメロが、ちょうど30秒だった。Bメロを歌いながら泡を水で流し、タオルで拭いてもまだ余るので、あとは歌いながら四股スクワットでも踏めば、運動不足解消にもなって一石二鳥。
この歌の歌詞は不思議で、涙がこぼれぬように上を向いて歩こうと言った直後に「泣きながら歩く 一人ぼっちの夜」と続く。泣くまいと堪えているように見せかけて、すでに泣いているのである。おそらく号泣であろう。ぽろぽろと溢れ出る水の玉が、目に浮かぶ。
人は泣くほど落ち込んでも、己を励まして前へ進んでいく力を持っている。泣きながら「泣かないぞ」と笑い、怯えながら「怖くないぞ」と自分より大きな相手にぶつかっていけるのである。
ええい、コロナなんかに負けてたまるか。そっちが数でかかってくるなら、こっちは頭脳でうっちゃりを決めてやる。
とはいえ、それは医者や科学者の頭脳、わたし自身は神頼みくらいしかできない。

相撲は今でも、神事の側面を持っている。本場所の前日には土俵祭りが行われ、祝詞を上げ、土俵に供え物を埋めて神に捧げる。
祈願される繁栄や豊穣、平和といったものの中には、この騒動が早く鎮まりますようにという願いも込められたことだろう。
相撲の神様は、きっと聞き届けてくれる。そして次の五月場所、わたしは必ず国技館で、心置きなく、不屈の力士照ノ富士に大声援を送っている。
もうチケットを押さえてあるので、頼みますよ、神様。

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