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納豆を包む孫のノート

私はB氏とふたりで18日間、ヒマラヤの山麓を調査のため歩いていた。B氏は30代後半にして初めてコーヒーというものを飲んだが、夜になっても眠れなかった。翌朝、私はコーヒーを飲ませたかどにより有罪判決を受けた。

一夜の宿を所望した家では夕食に牛肉が供された。B氏はヒンズー教徒であり牛肉を調理した鍋で調理したものも受け付けず、インスタントラーメンを齧って夕食とした。山の民はチベット文明の辺境にあってダライ・ラマを信奉していた。

嫁さんになってくれる人を探し歩いているという75歳の老人に出会った。選挙が近く、政治家が遊説のために乗り込んでいた。当選するためにドラム缶で票を焼かせるやからである。私は日本人だと言っても通じない。日本を知らなかった。外国人だと言うとわかってくれる。

男たちは煙草をトウモロコシの包葉で巻いて吸った。咳を抑えるらしい。ヤギが酒粕を食べて酔っぱらっていた。ボスと思しき役人はテトリスに夢中だった。

週に一回、道端に市が立った。近隣の農家が品を持ち寄り、路傍に座り込む。そこで私は、納豆を発見した。納豆は日本固有の食べ物ではない。インドネシアでは「テンペ」と呼ばれ、ヒマラヤの麓では「キネマ」と呼ばれる。日本の納豆ほど糸を引かない。

肉は贅沢とされる土地で、豆類は貴重なたんぱく源であり、畑には必ず植えられている。つる性の豆は枯れたトウモロコシの茎に巻き付いて天に伸びる。大豆はかつての日本と同じで畔に育っている。そう、私たちは同じアジアに生きている。

路傍のおばあさんは、何か使用済みの紙に納豆を包んで売っている。それは千切られたノートの一片で、おそらくは孫だろう、勉強で書きとった文字でびっしりと埋められている。

市が立つ日は決まっている。その日に合わせておばあさんは逆算して納豆を仕込む。夜明け前、おばあさんは孫にノートを千切るように言う。孫はすでに書き込んで用済みになったページを数枚破り、おばあさんに渡す。おばあさんは納豆を包み、市に旅立つ。

紙は貴重品だった。お尻を拭くのに紙など絶対に使わない。ノートも再生に再生を重ねた原料でつくられて濁っている。納豆を買った村人はそのまま食べず、鍋で煮込む。包んでいた紙は夕餉の焚き付けとしてその生命を、長い旅を終える。大豆、おばあさん、孫、勉強、何もかもが鍋の中でグツグツと煮立ち、温かい夕餉となって誰かの腹におさまる。

『ブータン 山の教室』(2021年)という映画があった。ひとりの若者が山深い学校に赴任する。宿舎の窓にはガラスの代わりに紙が張られている。辺鄙な暮らしを嫌がっていた若者も子どもたちと交流して馴染んでいく。やがて子どもたちのノートにもう書く余白がなくなり、若者は窓代わりの紙を剥がし、子どもたちに差し出す。その紙が先生の窓であったことに子どもは気づき、悲しむ――。

私が日本に帰国するとき、B氏は自分で育てた籠一杯の卵を私にくれた。明日には旅立つのに、この一杯の卵をどうしたらいいのだろう。でもそれが、彼が私に捧げる出来る限りの友情だった。


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