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壁という欲望

災害に襲われて、体育館のような施設に避難し、仕切りのないわずかなスペースを与えられ、何カ月も共同生活を強いられる。誰にでも起こりうることである。

私は、玄関わきにキャンプ道具一式をコンテナひとつにまとめてある。いざとなれば山に入ってタープとテントを張ろうと、頭の片隅で思っている。自分という殻、他者との距離は、どうしても欲しいというのが正直なところである。

究極の健康は、何もかも筒抜けで何とも思わない、むしろ快さを感じる心だろう。世界にはそんな人が実際にいる。

バリ島のウブドゥには、柱だけで壁のないカフェがある。熱帯だから可能なのだろうが、クッションに沈みまどろむと、風や音が通り、何とも気持ちいい。生活そのものがこうであればいいのに。

インドにエローラという遺跡がある。岩をくりぬいた部屋があり、ひんやりと涼しい。外には荒涼とした乾いた大地が白く広がっている。ああ、ここで暮らしたい。そう思った。

昨今、科学者や宗教家といった有識者が「自分など存在しない」とする言説によく触れる。「そう思えば楽になりますよ」という説法であり、本当に楽になる人は相当数いる。

ひとりになりたい。それが私の出発点だった。夢見るのは、スコーンと抜けた、内壁や仕切りのない、ワンフロアの一室に暮らすことである。ひとりなので裸でもいい。ルンバ数台が掃除をしてくれる。

それでも、外壁は欲しい。「自分は自分である」と思っているからだ。想いかえせば、自分、自己、自我、自由といった概念を奪われた環境に生れ落ちた反動なのだと思う。多かれ少なかれ、誰しもそうなのかもしれない。

壁は束縛であると同時に、自分という概念を守ってくれる。壁は自分であり、自分は欲望である。だから、壁は欲望である。

メタファーとして自覚していれば、それでいいだろう。

映画『ディーバ』より
映画『ノスタルジア』より

6/17追記

ウブドゥやエローラの壁のない、開かれた部屋や家屋に、経験したことのない心地よさを感じたのは、旅の身だからかもしれない。私の場合、たゆまぬ「移動」によって生物としての健康が保たれるのでは、と思い至った。


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