【映画】高次元の存在 「シン・ウルトラマン」
子供の頃、↓のウルトラマンタロウの成長物語が面白過ぎて、何度も見返していたのを思い出した。
ウルトラマン兄弟がヒッポリト星人に殲滅されて、ゴッドファーザーが助けに行くという、今見ると突っ込みどころ満載でチープな内容なのだが、そうそうコレコレ!という、ここにしかない世界観に安心させられる。
ということもあって、シン・ウルトラマンが気になってきた🤔 円谷プロダクション50周年ということで、シン・ゴジラの後に公開されたのが本作品だ。子供の頃、存在していたウルトラマンが、今リバイバルされた。
例のごとく、気付いたら映画館に向かっていた。ホットココアとマジカルポップコーン(あ、糖分(;^_^A)を買って真ん中辺りの席に座った。
前半怪獣が暴れまわるシーンと、ウルトラマンが突然登場し、銀色に輝く異次元の存在感という演出は、今の時代だから成せたことだろう。この前半シーンはやっぱり映画館で見てよかったなぁと感じた。
中盤は次々と異星人が侵略を企ててやってくる、という若干詰め込み感は否めないが、侵略に来た目的や、人間に扮した異星人とのやり取りのエンターテイメント要素の分かりやすさ、これが昔見たウルトラマンと重なるチープ感をうまく演出していた。
あまりネタバレしたくないので、さいごのメッセージ性というところで語ると、ウルトラマンは劇中で何度か地球を守るためなら、自分の命を失っても構わないという発言をしていた。
そもそも地球外から来た、高次元な存在であるウルトラマンがなぜ自己犠牲を払ってまで、地球を守ろうとするのか?
中盤メフィラス星人が侵略を企てて政府と接触した際、地球人を滅亡させるつもりはなく、ただ管理下に置くという紳士的な協定を結ぼうと、ウルトラマンにも説得を試みたがそれを拒否している。
それは外部の干渉によってではなく、自分たち自身で利他の重要性に気付き、文明を発展させていくということに可能性を感じたからだと思う。
しかし、先程言った自己犠牲という言葉について脱線するが、日本の仏教には修験道という、外部から見ると自ら死へ向かっていくような、とんでもなく過酷な修行が存在する。いわゆる悟りを開くための修行だ。
【千日回峰行】1300年に2人だけ達成、命がけの苦行から大阿闍梨が学んだ3つのこと | GLOBIS 知見録
途中で止めることは死を意味するものもあり、普通の人ならその修行に足を踏み入れることすらできないだろう。人生は困難・苦難を乗り越える訓練であることは、何となく分かるのだが。。
しかし、困難・苦難は意図しないタイミングで降りかかってくるものだ、その時のために色んな世界を見ておくことは大事だろう。無から想像は生まれない、一時的に逃げられる困難は逃げたっていい。今やれることをやろう
↓ 映画館に行くとポストカードが漏れなくもらえます✨
サポートいただいたお金は、サラミ研究所の活動資金とさせていただき、あなたとともにnoteを盛り上げていきたいです😊