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一時帰国前の幸福感と「キリストの肢体であること」について

海外生活6年、その内一時帰国は昨年一度のみ。

でも今年から年2回は帰れるようになりそうです。

すぐに実現するかはわからないけど、東京に一部屋借りたいと思ってるくらい。

今回突然の一時帰国は、教会関係の方のご紹介で、とても良い条件でお部屋を貸して頂けることになり実現。

感謝してもしきれない!自分ひとりで出来ることなんかたかが知れてるって、いつも人様に助けられて生きてるって、改めて思った。

そんな矢先に肩を壊す。原因は寝方なのか?わからないけど、急に右肩甲骨周りが痛みだし、中々身体が動かしにくい状態に。

私が日本へ行くのを妨害しようとしてるヤツよ出てけ〜‼︎

等と叫びつつ:)

自分が「キリストの肢体であること」について思いを巡らす。

“からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。 実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。 もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。 また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。 もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。 そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。 もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。 ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。 目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。 そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、 からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、 麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。 それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。 あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。”

‭‭- コリント人への第一の手紙‬ ‭12‬:‭12‬-‭27‬

自分の身体の一部が痛んだり弱まったりすると、このことが本当によくわかる。

横になったところから立ち上がる度「イテテ〜」と呟くような今、左半身の支えでなんとかやってる。

でもこれが長引いちゃったら左半身への負担も大きくなって、きっと全身が辛くなっちゃうね。

あとは「自分ってダメだな〜」「自分が頑張ったところで...」等と自己卑下に走るのは的外れだということもよくわかる。

自分は"キリストの肢体"としての右片目どころか眉毛の一部かもしれないし、左手小指の爪かもしれない。いずれにしても人の身体に全く必要のない部分はない。

(脾臓や盲腸がなくても生きていけるとは言うけど、厳密には働きがあって不要な臓器ではないとのこと。)

そうは言っても、自分が小さな取るに足らない存在に感じる時だってある。人間なら誰だってきっと。

でもそれは問題じゃない。というか真理じゃない。大きな全体を想像する。

右肩の様子も見つつ、いざ愛しの日本へ☆

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