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きみの鳥はうたえる

ビートルズの"and your bird can sing"の和訳がタイトルになっている「きみの鳥はうたえる」、原作の佐藤奏志さんは既に1990年に亡くなっているんですが(自殺とのこと。)、ここのところ立て続けに映画化されていて、28年も前に亡くなっている作家の作品が「なぜ、今?」と思っていたんですけど、「そこのみて光輝く」、「オーバー・フェンス」、そして、今回の「きみの鳥はうたえる」の3本を観て、(原作小説は読んでおりません。)分かったことがあるのでそれを書いてみようと思います。「きみの鳥はうたえる」の感想です。

ちなみに、今回、時間的にちょっと無理してこの映画を観たんですが、それは、前回感想を書いた「寝ても覚めても」と対になる様な映画だと言われていたからなんですね。で、確かに普通とはちょっと違う関係性にある男性ふたりと、その間で揺れる女性の心理を描いている恋愛ドラマということで同じ様な話ではあるんですが、その描き方と言いますか、表現の仕方が全く逆ベクトルになっていて、簡単に言えば、「寝ても覚めても」は、恋愛に対して疑いの視点を持った映画で、「きみの鳥はうたえる」は、そこを信じきった視点で描いてる映画なんじゃないかと思ったんです。で、佐藤奏志さん原作の物語は、大体が、この"何かを信じてる人たち"の話なんじゃないかと思うんですよ。

「そこのみて光輝く」も「オーバー・フェンス」も映画としてとても面白かったんですけど、どちらも観ていて凄く居心地が悪い。(個人的には面白さよりも居心地の悪さの方をより多く感じていました。)で、その中でも今回の「きみの鳥はうたえる」がもっとも居心地が悪かったんですが、ただですね、共感というか、「ああ、こういう感じ分かる。」っていうのも、この3本の中ではもっとも多く感じていたんです。「オーバー・フェンス」や「そこのみて光り輝く」では、物語の設定上の情報を自分の知識と照らし合わせて「ああ、分かる。」となっていたのが、この映画では、もっと皮膚感覚での「分かる。」になっていたってことなんですけど。ただ、それによって、本来、描かれなければならなかったものの欠落にも気づいてしまい、それに対する居心地の悪さやいたたまれなさが他の2本よりもだいぶ多かったんですね。えー、それが何なのかと言いますと、「そこのみて光輝く」も「オーバー・フェンス」も、主人公の置かれた状況が既に地獄で、(その、既に地獄にいることに主人公が気づいているという)その中でどう足掻いて、信じている何か(例えば、”愛”だったり、"人間らしく生きる"ってことだったり、"誰かから必要とされる"ってことだったり)を捨てずに、その場所にほんのちょっとの希望を見出すかという話だったんですけど、「きみの鳥はうたえる」に関しては、その人生における地獄面というのはないものの様に描かれていてですね、あたかも天国にいるかの様な描かれ方をしているんですね。

つまり、「そこのみて光輝く」や「オーバー・フェンス」よりも前の時期(モラトリアムの頃)を描いてるということなんですが、映画では、よりそのモラトリアム期というのを美化している様に感じたんです。だから、その、ほんとはあるのにあえて描かれない地獄面をより強く感じてしまって、更に居心地が悪くなるってことだったんですけど、あの、いろいろ示唆はされてるんですね。主人公の親友の静雄は母親に対して愛憎入り混じるものを感じているし、ふたりの男性と愛情とも友情ともとれる関係になる佐知子も打算的な愛を清算しようと考えている。なんですけど、そこに直面するシーンは描かれないんです。はっきり言えば、僕は佐知子が店長と別れ話しているところこそ(そこで佐知子がどんな顔するのか)が見たかったし、じつは、原作にはあるというこの映画の続きになる静雄と母親に起こるある事件のとこも描いて欲しかったんです。(まぁ、そこまで描いたら全然違う映画になっていたと思いますが。)なぜなら、青春期とは人生の中のただただ美しい時間であるとは、僕はやっぱり思えないからなんですね。(いや、マジ、勝手なこと言うなってことですが。)

あの、じつは僕にもあったと思うんですよ、この映画に出て来る様な青春時代(というかモラトリアム期)というのが。男女の境なく付き合ってる仲間みたいなものや、愛情と友情があいまいな関係なんかも。(で、それにひたすら浸っていた時期というのも。)ただですね、そういうことをしながらも常に心のもう一方に、その状況にツッコミを入れるもうひとりの自分がいたんですよね。「これはウソだ。こんなの状況に酔って演じているだけだ。」、「本当の俺はこんないいヤツじゃないし、愛も友情もそこまで信じていない。(し、やることやってる時点で何言ってもきれいごとだろ。)」なんて。連日、クラブにも遊びに行きましたけど、本来は家でひとりで過ごす方が好きでしたしね。だから、僕は割と早々に"じつはみんなも無理して理想の青春を演じている。"ってことで、ある意味納得していたんですね。この映画で描かれてる様なことは青春の幻想みたいなもので、本来の人生とは違うところにあると。だから、こうやって説得力を持って良き青春(それが破堤しないで終わる物語)を描かれると不安になるんですよ。あの居心地の悪かった青春をみんなは一遍の曇りもなく良いものと思って過ごしていたのだろうかと。(だから、それはお前の体質とか性格の問題だろ。一遍の曇りもない良き青春というのに浸るのを邪魔しないでくれと言われたら、それはほんとにその通りなんですけど、)ただですね、さっきも書いた様に「本当は地獄面もあるぜ。」ってこともちょいちょい言ってはいるわけですよ、この映画も。

というか、少なくとも原作はそうみたいなんですね。じつはタイトルになっている"and your bird can sing"を登場人物が歌うシーンていうのが原作にはあるみたいなんです。そうすると、もっと、この歌が持ってる意味みたいなものが濃くなってくると思うんですけど、あえて映画ではそのシーンは使われてないんですね。それだと単に"きみの鳥だって歌えるんだ"っていう前向きなメッセージの様にも取れてしまうんですが、実際はこの歌の歌詞って、"自分の鳥は歌える"と思っている世間知らずな女の子のことを歌った歌なんですよね。だから、そういうところを折り込んでの「モラトリアム期永遠なれ」なのかっていうのがちょっと気になると言いますか。分かりづらかったなと思うんです。(ああ、だから、そうか、恋愛を地獄エンターテイメントとして描いた「寝ても覚めても」と対になるというのはそういうことか。恋愛を"地獄エンターテイメント"として描く映画があるなら、"リアリティを持ったウソ"として描いたっていいじゃないかってことかな。違うかな?ただ、そうやって観るとお互いの主張してるところがとても分かりやすくて、正にお互いを補完する様な映画なんですね。)

つまり、結局何が言いたいのかというと、ラストでようやく主人公があることを背負うことになるんですが(あの終わらせ方はとても好きです。ただ)、あそこはもっと滑稽に描いて欲しかったなってことなんです。(サジ加減難しいですけど、個人的には、それまでの映画の空気を逸脱するくらいに。)あれではまだまだ全然いい男で、佐知子を悩ませるだけのズルイ男ですよ。ラストでがっつり崩れたとこ見せてくれたら、たぶん、一気に自分のことの様に思えたと思うんです。(ダルデンヌ兄弟監督の「ある子供」っていう映画があるんですが、それまでほんとに自分勝手でダメなところしか見せてこなかった主人公が、映画のラストのほんの何秒かのところで一気に崩れ落ちるんですね。その一瞬で、それまで全く感情移入出来なかった主人公のことを全部許せる様な気持ちになるんですけど。そういうラストになったんじゃないかなと思うんです。もっと崩れてくれたら。)あとは、あの店長(萩原聖人さん良かったですね。)とバイトの先輩の嫌なやつ。あのふたりの真実の部分がもうちょっとあったら良かったと思うんですよね。主人公たちとは違うパラレルワールドの話ではなくて、そっちの青春もあるっていう風に。(まぁ、ほんのちょっとだけ描かれてはいるんですけどね。そのシーンはめちゃくちゃグッと来ました。)

ただですね、これ、エンドロールが出て来て初めて分かったんですが、柄本祐さんが演じている主人公は名前がなくて役名が"僕"ってなってるんですよね。つまり、そういう、名もない男の主観の物語と言われれば、(主観の物語なのかどうかっていうのが分かりづらかったんですよね。静雄のモノローグも入るし。)それはそれでああいう描き方が良かったのかもなとも思うんです。(つまり、いろいろ書きましたけど、とても心の衝かれたくないとこを衝かれる様な映画だったなということです。)

http://kiminotori.com/

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