見出し画像

ちはやふる-結び-

えー、基本的に青春映画は好きでいろいろ観てるんですが、これだけ真っ当な話を大真面目に描いて、そして、それが成功している映画もなかなかないんじゃないですかね。全てのキャラクターが等価値に描かれて、みんなそれぞれの立ち位置を見つけ成長する。全員にきっちり見せ場があって、新キャラにまで感情移入させてしまうって。これだけやってくれたら、そりゃ青春映画として充分ですよね。上の句、下の句と来て結びの一番、最高傑作というか、この最終章で前二作をきっちり引き継いで終わらせることによって三部作をまとめて傑作たらしめてるんじゃないでしょうか。「ちはやふる -結び-」の感想です。

でですね。考えたんですよ、自分の青春時代を。これだけ感情移入出来てるんだからさぞかし同じ様な経験してるんだろうって。そしたら、僕の高校生活にはこれほどまでに打ち込んだものも、親友とひとりの女の子を取り合ったこともなかったな。と。だからさぁ、分かってはいるけど、これって圧倒的なフィクションなんですよね。(それもそうとう理想化された。)それでも、自分の過去と照らし合わせてしまうくらいのリアリティーを感じてしまうのは何故なんだろうってことなんですが。それは多分、青春の虚無を描いてるからなんじゃないかと思うんですよ。

あの、この物語には、千早(ちはや)と新(あらた)と若宮詩暢(わかみやしのぶ)っていう3人の天才が出て来るんですが、この3人が特に何かを手に入れるって話じゃないんですよね。というか、この3人は(特に今回の「結び」では)ほとんど何もしないんですね。磁場の中心みたいな役割で、基本的には3人に呼び寄せられて集まった周りの人達の話なんです。で、周りに集まって来るのはどういう人達かというと、圧倒的に普通の人なんです。(というか、何も持ってない人達ですね。自分が特別かどうかなんて考えたことがないくらい普通の人達ということです。)で、その普通の人達が千早や新や若宮詩暢に出会って、(この人達に比べて自分はダメだなって卑下するのでも逆に奮起するのでもなく)それぞれの立ち位置や退き際を見極める話なんですよね。だから、自分には何もないっていうことに気づいて受け入れて、では、このままの自分でどうやって生きるかを見い出す話なんです。(アイデンティティーの確立と言いますかね。)映画を観てるほとんどの人達はこっち側の人間なので、ここで共感するんですよ。こっち側に焦点を当ててくれるから。で、僕はですね、この普通の人達と、いわゆる天才と言われる特殊な人達が何のてらいもなく交わるのって、人生の中でこの高校時代が最後なんじゃないかなと思うんです。(その証拠に、今回、彼等よりも年上の天才として周防久志〈スオウヒサシ〉って大学生が登場するんですが、彼は普通の人とは交われないでいるんです。)その仕切りというか上限があるから"この瞬間"の話なんだと思うんですよ。高校三年の夏で確実に何かが終わってしまうっていう切迫感にうなずけるんだと思うんですよ。それを青春時代を過ぎて大人になった僕らは体験として知ってるってわけなんです。なので、大人視点で観ると、この子達が"この瞬間"を生きてるってことだけで切なくなるんですよね。これが永遠には続かないってことを知っているので。それで更に、今回の「結び」は、そのことを本人達も何となく気づいてきてるっていう頃を描いてると思うんです。(だから、"青春の終わりの予感"ていう美しくも切ない空気が充満してるんだと思うんです。)

で、その千早と新っていう天才ふたりに太一(たいち)って幼馴染みがいるんですけど、この人が今回の主役なんですね。(ちなみに、「上の句」は机くんが主役で、「下の句」は千早が主役だったと思うんですが、持たざる者の苦悩、持ってる者の苦悩と来て、最後は持ってる者の間で苦悩する持たざる者の話にしたってことですよね。)幼い頃から感化されて、ふたりの様になりたくて、しかも、そのある特殊な才能を持っているという共通項があるふたりの間に割って入って女の子を取り合おうっていうんですから、やっぱり太一が一番辛い立ち位置にいるんです。つまり、太一は秀才でイケメンなんですけど、それでも自分の努力や力ではどうにもならないことがあるっていうのを体現する役なんですね。正に青春という虚無ですよね。(欲しくないものはいくらでも手に入るけど、ほんとに欲しいものだけどうしても手に入らない。)で、その太一が孤高の天才周防久志と接触していくことになるんですけど、周防にとって、太一という存在を全く異種のものとして描いているんですね。(ある種羨ましい存在というか。)それによって、持ってる者の生きづらさと持たざる者の生きづらさの両方を描けてるんですよ。そういうとこホントよく出来てるなと思うんですよね。これだけの数の登場人物たちの内面をそれぞれ描いて、それをよく纏められたなって。(ほんとに全員に見せ場ありますから。)今回、原作にはないオリジナルのストーリーらしいんですが、とにかく脚本のまとめ方が素晴らしかったです。しかも、今回、持ってる側の新キャラとして筑波(つくば)くんと我妻(わがつま)さんというふたりが出て来るんですが、このふたり+持たざる側の新キャラ花野(はなの)さんの3人を描くことで、千早たちの今がいかに時間を共有して築き上げられてきたものなのかっていうのが分かる様にもなっていてですね。この3人はまだ自分本意の考え方で、それが「上の句」の頃の千早たちを彷彿とさせるんですよ。だから、今回の話って、こうやって繋がって行く時間の話でもあって、瞬間とか永遠とか永遠は瞬間の中にあるとか。それがちゃんと百人一首っていう、千年前に詠まれた歌が現在にも語り継がれているっていう、そういうことに繋がってくるんですね。

つまり、時間という有限なんだか無限なんだか分からないものの"ある終わり"と"ある始まり"を描いていて、時間は永遠に続いて行くけど、その中で常に何かが終わったり始まったりしていて。で、その中で変わらないマインドみたいなものを受け継いで行くっていう。そういう瞬間の連続が「今」であり「過去」であり「未来」だと。(で、そういうことを百人一首を使ってみんなに解いていくのが上白石萌音さんが演じる大江奏ちゃんなんですけど、これが凄く良かったですよね。この子は好きなものを純粋に好きというだけでやっている子なんです。)なので、そういう何もない今が、何者でもないこの瞬間の自分が、じつは一番凄いんだっていう。(どうにでも変われる、可能性しかない人生の季節なんだってことなんですよ。)だから、この映画観てると、出て来る子達「お前等全員スゲーよ!」って素直に思うんです。コメディーリリーフに徹した若宮詩暢も凄いし、ブレないメンタルを持ってる肉まんくんも凄いっていう風に、劇中の演出と現実のことがごっちゃになってる時点で、もう、完全にやられてるんですよね。この映画に。(あと、やっぱり絵いっぱつで決める説得力のある千早=広瀬すずさんスゲーなっていうね。)

競技カルタっていう一瞬が全てを決める事象で永遠を描くという、正にこの瞬間をフィルムに焼き付けることで永遠を作り出す映画そのものでもあり、それこそが青春でもあるという。それをロジカルに見せてくれたのが凄く良かったなと思うんです。(あの、このことに対して監督はとても自覚的だと思うんです。なぜなら、「キャストの年齢的にぎりぎりだから、今回の映画化で最後にする。」って言ってるんですね。青春を描くのにタイムリミットがあるってことを自覚しているってことですよね。)全うなことをとても丁寧に真面目に描いた青春映画の傑作だと思います。

http://chihayafuru-movie.com/index.html#/boards/musubi

サポート頂けますと誰かの為に書いているという意識が芽生えますので、よりおもしろ度が増すかと。