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【映画感想】ディナー・イン・アメリカ

これ、予告編が良かったんですよね。いかにもさえない感じのメガネの女の子と、モヒカンでパンク(というかハードコア)な風貌の男、普通は出会わないであろうふたりがひょんなことから出会いお互いの孤独を埋め合いながら暴走する青春映画。それをパンクという思想でコーティングしてる…と、いう。まぁ、その通りの映画ではあったんですが…というわけで『ディナー・イン・アメリカ』の感想です。

なので、言ってしまえば現代版『ロミオとジュリエット』というか、『俺たちに明日はない』というか、そういう悲劇的恋愛モノをベースにしてるので、世間から理解してもらえない若者の悲哀というか反抗のエネルギーが青春の暴走に繋がって行くんですけど、この映画はそこから更に反転させてコメディにしてるんですね。だから、あまり、この主人公のふたり(さえないパティと乱暴者のサイモン)を可愛そうには描いてないんです。で、その"俺たちは可哀想ではない"というところの指針になる思想として"なぜならパンクだから"ってなるわけなんです。でですね、個人的に、この"自分たちの正義"を振りかざしてくる世間に対する若者のアウトローな反抗の物語は大好物ですし、それと"パンク的思想"というのは合うとは思うんです。しかも、それをカラッとしたコメディにしてるというのは、その手の悲恋というのをシニカルな視点で描いて、ベースとしている物語さえも笑ってしまおうという点でより"パンク的"だなと思っていたんですが、これがちょっと違ったんですよね。

まず、物語は覆面パンクバンドをやってるサイモンの紹介から始まるんですが、うつろな目をしてよだれを垂らすサイモンのショットから、パンクバンド=ドラッグ常習者というステレオタイプな描き方なのかなと思ったんですけど、じつはこれ新薬の治験のバイト中だったんですね。治験のバイトはリスクは高いですが高額のバイト代が入るのでバンドマンは結構やってる人いたんですよね(若い頃は僕の友人もやってたりしました。)。なので、ここでなるほどこういう映画かと思ったんです。普通の人がパンクというものに持つ幻想を壊しながら自分を常識人だと思っている人たちに「そっちの方がおかしいだろ。」ということを突き付けるみたいな。そういう描き方かなって。そう思ったんですけど、このあとサイモンは治験のバイトで知り合った女の子の家に誘われて行くんですけど、その子の母親といい仲になって、家の庭に放火して立ち去るんです(うん?これはどう受け取れば…)。うーんと、むちゃくちゃなことをすることがパンクではないって主張かと思ったら、サイモン自身がむちゃくちゃなことをするんですね。で、"これがパンクな生き方なのだ"ということならそれは違うなと思ったんです(これだとパンクじゃなくてサイコパスですね。)。だから、もしかするとここは、この家族のあり方(母と娘は淫乱で父と息子は体育会系マチズモというサイモンにとっての権威)に対しての反抗ということなのかもしれないんですけど、パンク=破壊行為というのも浅はか(ステレオタイプな表現)じゃないかなと思っちゃったんですよね。で、パティの描き方にしても総じてそうで。ただ、だから、まぁ、そこはパンクとは何かってことに拘らなければ(そこも人それぞれありますし。)、サイコパスとADHDのふたりが世間の常識を覆して行く話だと思えばそれはそれで美しくはあるんですけど、では、なんで、僕がふたりの反抗にあまり乗れなかったのかというとですね。たぶん、ふたりを拒絶する世界の方がちゃんと描かれてないように見えたからだと思うんです。

えーと、この映画にはさっき話に出たサイモンが放火する家の家族と、パティの家族と、サイモンの家族の3家族が出て来るんですけど、どれも現代社会で問題視されてる様な過保護で差別的な家族なんですよ(しかも、一般的にはこれまで常識的と言われてきた様な。)。で、それをまるでそういう風にプログラムされたロボットのように心無く描くんです。要するにこれはパティとサイモンには全く話の通じない(いわゆる)大人たちということだと思うんですけど、僕には、パティとサイモン側がそういう風に世界を見ている様に見えたんです(つまり、ふたりの方が世界を拒絶している様に。)。ここがですね、なんかズルいなというか。えー、あの、ほんとに『ロミオとジュリエット』とか『俺たちに明日はない』の世界を何のアップデートもなしに描こうというのならいいんですけど、パンクって凝り固まった前時代的なものを破壊して新しいものを構築しようって概念じゃないですか。それならば、その対象となる世界をちゃんと見てそれに対して新しい価値観を(ただ破壊するだけでははなく)提示するのがパンクじゃないかなと思うんですよ。しかも、これ90年代の話らしいんですけど、それならば、その時パンクは一回終ってるんですよね。’78年のセックスピストルズのサンフランシスコでの最後のライブでジョン・ライドンが「ああ、なんでこんなんなっちゃったかな。」という風に座り込んで、去り際に「騙された気分はどうだい?」って言った瞬間に一度終わったんです。パンクには、"パンクで世界は変えられなかった。"っていう答えが一回出ているんですよね。だから、今のパンクはそれ以後(というか、それを踏まえて)のパンクなんだと思うんです。

この映画が現状のアメリカ(の家族)をアップデートされた今の思想で裁くのなら、サイモンとパティの破壊的な暴走(パンク)のその後も描くべきなんじゃないかと思ったんです(そういう意味で、今更ながらですが、青春の暴走の後始末を、その暴走の何倍もの丁寧さで描いたNetflixのドラマ『このサイテーな世界の終わり』のシーズン2は美しかったなと思うんです。)。予告編で、パティの「私ってバカなのかな?」という問いに対して、サイモンが「お前はバカじゃない。パンクロッカーだ。」っていうところがこの映画を観たいと思った決定打だったんですけど、本編を観たら「それ繰り返してたらバカだよ。」って思っちゃったんですよね。自分もバカかもしれないと気づいた後から世界をどう見るかっていうのがそれ以後のパンクなんじゃないのかって個人的には思うんです(ただ、パティが歌った『watermelon』という曲は素晴らしくて。あの歌詞に秘められたパティの繊細さをもう少し映画内で観たかったなと思うんです。)。


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