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【映画感想】佐々木、イン、マイマイン

ロックバンド"King Gnu"のMVに『THE HOLE』というのがあって、"男×男×女"の三角関係を描いた内容で、結構際どいラブシーンもあるし、バンドメンバー1秒も出て来ないし攻めてるMVだなと思っていたんです(恋愛というのをシビアに描いてるところがちょっと日本の感覚ではないというか、最近の韓国映画の攻め方に近いなと思いました。)。それを監督してたのが内山拓也監督なんですけど、2016年のPFFで観客賞獲ったり、今年の新藤兼人賞の銀賞を受賞したり、かなり注目されてる監督なんですね。その内山監督の長編単独監督作(の2作目になるのかな?)『佐々木、イン、マイマイン』の感想です。

えーと、前になんかの時にも書きましたがコロナ禍になってからなぜか青春映画ばかり観てまして、ちょっともうしばらくいいかなという時期だったので、この『佐々木、イン、マイマイン』も「今、観なくても…。」という気分だったんです(なんといっても映画のコピーが「佐々木、青春に似た男」だったので。)が、ちょっと連日映画館に行かなくては(というか、時間を潰さなくては)いけない状況になったので、「だったら、気になっていたこの映画を。」というくらいのつもりで観たんです。そしたら、いやー、やられてしまいました。あの、そもそも僕は青春映画が好きで、それで観すぎてしまっていたんですが、なんて言いますか、めちゃくちゃド直球の正しく青春映画なんですけど、青春そのものというか、(コピー通りに)佐々木という男は青春に似てる、青春を擬人化したらきっとこういう感じなんだろうという男で。その青春の(つまり、佐々木の)描き方がちょっと今までにない感じだったんです。

主人公は27歳の石井悠二という青年で、田舎から上京して来て売れない俳優をしながらバイトしてるという、絵に描いた様な青春映画に出て来るダメ主人公なんですね。20代も後半に差し掛かってそれほど俳優への夢にも情熱を持てなくなって、別れた彼女との同棲も惰性で続いてる様な状態で。正しく八方ふさがりなんですけど、そんな時に高校時代の友人の多田と再会するんです。多田は営業の仕事をしていて結婚もしていて。偶然、悠二のバイト先に飛び込み営業に来たらしいんです。で、飲んで話している中で高校時代の共通の友人の佐々木の話になるんですけど、そこから高校時代と現在のエピソードがシャッフルされて話が進むんです。最初は悠二の想い出の中の佐々木のエピソードって感じで話が展開して行くんですけど、話が進むうちに悠二が知りえないであろう佐々木のエピソードも出て来るんですよ(ちょっと、この辺観てて混乱するんですけど。)。つまり、これ、高校時代の話は悠二の想い出のエピソードではなく、佐々木自身の話だったんですね。そのふたつのエピソードが交互に出て来るみたいな構成になっていて。だから、高校時代のエピソードが進んで行くと、卒業後の佐々木のエピソードにも繋がって、最終的に現在の悠二たちの話とその後の佐々木の話が繋がるんです。恐らく、この異なるふたつの視線というか見方というのがこの映画のテーマのひとつなんじゃないかと思うんです。

映画のポスターがありますよね。この映画にも何種類かあるんですけど、大きくふたつに分かれていて、悠二バージョンと佐々木バージョンがあるんですね。単純に言えばそれぞれのキャラクターに寄せた作りというか、悠二バージョンの方はシリアスで、それに比べて佐々木バージョンの方ははっちゃけてるというか、あまり何も考えてないというか、何考えてるのか分からないというか。で、これはこの映画の序盤の印象を表していると思うんです。悠二の置かれたシリアスな状況から何も考えずに遊び惚けていた高校時代の甘美な季節(つまり、佐々木と一緒にいた頃)を見ている様な視線。その感じがそのまま映画の序盤の構成になっているんです。つまり、悠二の記憶の中にいる佐々木というのは自分たちが過ごしていたモラトリアムな時期の象徴で、佐々木そのものが悠二にとっては青春そのものなんだという。で、僕らもそう観てるんですよ。最初は。そうすると徐々に(さっき書いた様に)、それが佐々木視点の物語に変化して来るんです。佐々木自身が内包する辛さとか哀しさとかやるせなさみたいなものも見えてくる様になって来るんですね。で(この映画では)、佐々木は青春の象徴というか青春そのものとして描かれているので、キラキラと輝いて何も考えなくても良かったあの季節にも、そういう辛さとか哀しさとかやるせなさみたいなもの(つまり現実)が内包されていたんだってことになって、そのことに悠二が27歳になって初めて気づくって話なんです。だから、佐々木は佐々木であり青春なんですよ。で、青春も長い人生の一部であり、そこには常に現実が寄り添っていてその後の生き方に繋がって来るものなんだってことを言ってるんだと思うんですね。なので、悠ニが友達の木村の産まれたばかりの子供を抱いて泣くシーンがあるんですけど、あれは悠ニが青春の象徴として縛り付けていた佐々木をひとりの人間として解放してあげた瞬間じゃないかと思うんですよね。産まれたばかりの赤ん坊を見て、この子にも自分と同じ様に、友達とアホなことしたり恋に悩んだりする、この子だけの人生があるんだと感じたんじゃないかと思うんです(正に僕が自分の子供を最初に抱いた時に感じたのがこれでした。)。佐々木にも佐々木の人生があった様に。

そうやって、この映画、その佐々木が実在する人間なのか悠二たちの想い出の中だけに存在する青春の象徴なのかっていうのがずっと曖昧なまま続くんですね(だから、凄くリアルな日常を描いてるところと、そのリアリティを壊す様にファンタジックなところがあるんですけど、これも先に書いた異なるふたつの視点てことだと思うんです。佐々木を青春の象徴として描きながら、その描き方の人間としてのリアルさとか。)。例えば、高校時代につるんでいた3人と佐々木の別れのシーンというのがあって、その各々のリアクションに顕著なんですけど、自分はサラリーマンで結婚もしていながら、いまだに夢を追っている悠二に対して憧れを持っている多田は、それを素直には出せずに憎まれ口を叩く様なやつで、高校時代も佐々木に対してバカにした様な言動をしてたやつなんですけど、その多田が佐々木との別れのシーンでは一番感情的になるんです。逆に、3人の中で唯一田舎に残って同級生の女の子と結婚して子供もいる木村には直接的な佐々木との別れは描かれないんです。で、佐々木のことを常に心のどこかに置いてきた悠二は、その別れを受け入れる準備をずっとしてきた様に見えるんです。つまり、一般的な社会人のレールに乗りながらもまだ自由でありたいと思っていた多田は青春の終わりを目の前にして取り乱すし、周りに流されずに自分の信じるものを手に入れてきた木村はみんなより少し先に青春の終わりを悟っていた様に取れるんですよね。このシーンは佐々木そのものというよりも青春の象徴としての役割が強い様に思うんですけど、さらにラストで現実では絶対にありえない様な現象が起こって、物語の流れがグッとファンタジーに寄るんです。ただ、それに反発する様に佐々木視点のエピソードでは佐々木の徹底的に人間的なとこが描かれるんですよね(高校時代にめちゃくちゃ面白いやつだなと思ってた友達が田舎に留まってそのままパチプロやってるなんて、ああ、ありそうってエピソードですもんね。青春の挙げ句の果てがパチプロってことですもんね。)。だから、ラストがいくらファンタジーに寄ってもそれほど寓話的には見えないというか、奇をてらった様に見えないのは、この映画が佐々木をひとりの人間としてと青春の象徴としての両面から(もしくはどっちとも取れる様に曖昧に)描いて来たってことで(あと、もうひとつ顕著なのは、もの凄くひっそりとなんですけど、佐々木は絵を書いていたり演技に造詣があったりでいろんな文化的な才能の可能性を秘めてる様に描かれるんですけど、それが花開くことはないんです。様々な可能性だけが開かれてそれが結実する前の状態に常にあるというのも正しく青春そのものですよね。)、それがふたつの時間軸の話を少しだけ違う見え方で描くという構成に表れてると思うんです。ラストの畳み掛けで「ああ、やっぱり佐々木は青春の象徴で悠二たち3人にだけ見えるみたいな存在だったのかもしれない。」と納得しようとしたんですけど、エンドロールでもの凄く(こういうやつはこういう歌をこういう風にカラオケで歌うよな。朝方に。っていう)リアリティのある音源が流れて来て、それはやっぱり何かの象徴ではない、自分の置かれてる状況に納得してない、本当は未来に希望を持っていたい泥臭い人間の発する歌なんですよね(この歌を歌ったであろうカラオケのシーンというのがあるんですけど、あの夜の描き方ほんと素晴らしかったです。泣くとか笑うとかいうよりも見てて硬直しました。あまりにも既視感があり過ぎて。で、あの夜の中で何気なく歌われた歌がエンドロールで流れるんですけど、ほんのちょっとだけ佐々木の本音が表れてる様な歌で。それがなにか自分の思い出の様に響いて、めちゃくちゃグッと来ながらも忘れようとしてたこと思い出したみたいな気分になるんですよ。)。

だからつまり、何が青春映画として新しいかってことなんですけど、青春という季節に起こった事象を描いた青春映画はこれまでも沢山あったと思うんですけど、この映画は、悠ニを描くことで青春という季節に起こった事象を、佐々木を描くことで同時に青春そのものをも描いてしまっていて、青春とは何かっていうのを解明しようとしてる様で、タブーに触れてる様な怖さがあるんです。なんでしょう、確かに、自分の学生時代を振り返って、奇跡の様にこちらの予想を超えることして来るやつっていましたけど、今から考えると、それは本当にあの時期限定の奇跡の様な現象だったんだなと思います。だから、実質、あの時のあいつは今はどこにもいないわけなんですよね。そのことをこの映画は、青春に身体性を与えることで見事にビジュアル化してみせてるんだなと思うんです。今の若者を描いた映画ですけど、恐らくどの世代が観ても自分事の様に感じてしまうのは青春そのものを描いてるからなんだと思うんです。

https://sasaki-in-my-mind.com/

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