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【映画感想文】アステロイド・シティ

えー、ウェス・アンダーソン監督作と言えば、いまだに最初に観た『ダージリン急行』が一番面白いと思っている派なんですが、(去年の『NOPE』を受けてか否か)アメリカの砂漠にUFOが飛来するという予告に魅せられて行って来ましたウェス・アンダーソン監督最新作『アステロイド・シティ』の感想です。

↑で挙げた『ダージリン急行』や『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』辺りは普通にちょっとシュールでオフビートなコメディをやる監督って印象だったんですが、『ファンタスティック Mr.FOX』でストップモーション・アニメをやった辺りからですかね。実写映画の方でも画面に映るものを全て掌握したいというような狂気的な映像へのこだわりが出始めまして(映像だけではなく、俳優の演技もどんどん画一化されていくわけですが。)、前作の『フレンチ・ディスパッチ』では、そのこだわり捲った映像をもの凄い情報量とスピードで見せるっていう(僕は好きは好きでしたが『フレンチ・ディスパッチ』)飽和状態一歩手前って感じの作品だったんですが、今回、その先があったということで。なんというか、画面掌握欲は更に進み、空と土の色味に合わせたキャラクターたちの衣装や家や車なんかのカラーコーディネイトの一分の隙の無さ、油絵のようでもあり複製されたポップアートのようでもあり。更に以前からあった物語内物語癖も輪を掛けて複雑になり(今回は、メインとなる物語はあるテレビ番組の中の番組内ドラマとして紹介され、その番組内ドラマ、そのドラマを紹介しているテレビ番組、そのドラマの制作現場という3舞台構成となります。)。まぁ、だから、紛れもなくウェス・アンダーソンではあるんですよ。ウェス・アンダーソン味を更に押し進めたというか。

そもそもホラーとかシリアルキラー物とか、現実の嫌なところを抉り出すようなゲスな映画が好きな僕が、こんなにおしゃれでかわいいウェス・アンダーソン映画を嫌いになれないのは、その世界にそこはかとない虚無感(もっとあからさまに言っちゃえば"死")を感じるからなんですけど、これまで、あくまでもその箱庭的世界に"生"を感じさせる為に存在していたように見えた"虚無=死"が今回の作品ではついに全面に出て来たような印象を受けたんですよね。しかも、"死"の世界の方が監督にとって現実味を帯びてきたというか。映画内ドラマとして描かれる"アステロイド・シティ"のあの世感。あの色合いとキャラクターたちの希薄さを見てると、ちょっと半分あっちの世界に行っちゃってんじゃないかって思うんです。ただ、その世界で行われるのは核実験だったり、宇宙人との遭遇を世間にひた隠しにしようとする政府との攻防だったり。正直あまり居心地が良さそうだとは思えないんです("アステロイド・シティ"と『NOPE』に出てくるアミューズメント・パークの"ジュピターズ・クレイム"のどちらに行きたいかって言われたら断然『ジュピターズ・クレイム』ですよ。僕は。)。

だから、何て言うんでしょうか。現実の写し鏡としてのテレビのショーというきらびやかな世界。そして、そこで紹介される創作物としてのドラマ。でも、その創作された世界さえ魅力的でも楽しそうでもないんです。虚構に虚構を掛け合わせたら完全な虚無状態になってしまって現実の投影部分のとこだけ見えてきましたみたいな。つまり、面白くないんですよ。ここに出て来る人達がなんで生きてどういう原理で行動してるのか分からないから。なんですけど、テレビのショー(っていう虚構)とテレビ内ドラマ(っていう虚構)の間にほんの少しだけ制作現場っていう裏方(現実)が描かれて、そのシーンだけは生き生きとしてて"生"を感じるんです。特に主人公のオーギーが、ビルの非常階段越しにマーゴット・ロビー演じるオーギーの妻役を演じるはずだった女優と会話するシーン。あそこが何でもないシーンなんですけどむちゃくちゃスペクタクルなんですよね。虚構を装った現実と現実を孕んだ虚構の間でオーギーがその世界の外側の存在から助言をもらうシーンですよね。人形のピノキオが旅した末にブルーフェアリーから人間にしてもらうみたいな。なんていうか、だから、ああいうのがあるから概ね退屈なんですけど、面白くなかったとは切り捨てきれないといいますか。ウェス・アンダーソン自身が現実にも、現実を踏まえた虚構にも魅力を感じてなくて、それを踏まえた上で理想でもなんでもない虚構を作り出してるんだけど、その何かを作り出してる瞬間にだけは"生"を感じるってことを言いたかったんじゃないのかなって思っちゃったんですよね。虚無ですねぇ。


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