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寒き風、胸を穿つ

この感覚に名前があることを知る日が来るならば、その時その言葉は、この感覚そのものを少しだけ殺してしまうだろう。この感覚、わたしが冬に抱くこの感覚には、名前が無いからこその見えない価値がある。

冬。
夜。
塾帰りの御茶ノ水。
タイミングの悪い信号待ち。
遠くでイルミネーションが光っている。
聖橋をタクシーが乾いたタイヤの音を立てて通り過ぎる。
マフラーに顔を埋めながら、信号の目盛が下がっていくのを待つ。
いつのまに冷たく固くなった夜が、外側からじわじわ身体を冷やす。
寒い風はわたしの身体にうっすらとかすり傷をつけながら吹き去っていく。いたずらな少年が人々の間を楽しそうに駆け周り、身を縮める人間を見て満足そうににやにやする姿が見える。
風が止むと、張り詰めた空気は純度を増して堅くととのった幾何学的な美しさを魅せる。無口な威厳がそこにある。

寒さに晒されると、どうして、こんなに悲しくなるのだろう。寂しい、と、悲しい、と、虚しい、と、寒い。全部間違えて脳が飲み込んで解決してしまう。胸に穴が空いたようになって、そこを冷たい空気が通り抜けては遊んでいる。すっかり抜け殻になって、ただ意識だけは残っていて、冷えていく体に抗うように温もりを求めてしまう。この感覚。

どうやって埋める? お互い傷つかずに、わたしも、あなたも、暖かく過ごせる方法は、どこかにある? この冬はまた来年も来る?そのときわたしはまだこんなことを言っているかしら。
踏ん張るために息を大きく吸っても、その空気が冷たい。痛い。胸にそのまま棘が刺さる。
きらきらショーケースの中のクリスマスケーキ、味はするのだろうか。

愛情と恋愛の違い。恋愛と信頼の違い。信頼と愛の違い。
わからない。
あなたとの正しい距離。私が知りたいと望んでいい範囲。あなたにかけていい信頼と期待の重さ。一緒に背負ってもらえる荷物の量、わたしがひとりで消化しなくてはいけないもの。
わからない。
わたしが貴方にできること、できないこと、してよいこと、悪いこと。あなたに伝えて良いこと、隠しておくべきこと、伝えてはいけないこと、伝えなくてはならないこと。
なにも、わからない。
ここからもう、動けないなら、わたしはこの穴を埋められないまま生きてしまう。いつか思わぬところで、溢れて、隠す嘘がつけなくなって、あなたを傷つけてしまう。この気持ちに名前をつけたなら、あなたには二度と会えなくなってしまうだろうか。

信号が、青に変わった。
少し早足で、ジグザグに進んで、駅に向かう。
冬、私を穿つのをやめてくれ。
改札を通ると、乾いた電子音が高らかに鳴った。
今日は、早く帰ろう。猫を抱いて、あたたまって、そのまま寝てしまおう。そうやってとりあえず毎日を重ねて、踏み外さないように慎重に歩く。
あたためてくれる人は、多分いる。気づかないうちに意外といつも身近にいるかもしれないし、いつか出会えるものかもしれない。
春はたぶん、ちゃんと来る。

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