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【IB・MYP・評価】学校における”評価”を手作り玉ねぎ麹に対する辛口評価エピソードと無理やりこじつけてみる。(過去想起編)

ここ3ヶ月、玉ねぎを麹と混ぜ合わせることでできる調味料
”玉ねぎ麹”に、はまっています。

塩も混ぜ合わせて発酵させるのですが・・・
最初に作った時は、塩加減が思うように掴めません。
玉ねぎ麹第1号に漬けて焼いたお肉を振る舞うと、
「塩辛すぎる!食べ続けたいと思えない」という言葉を受けました。
私自身は食べられなくもないなあ程度だったのですが・・・

『ああ、辛口な評価を受けたなあ』と思い出します。
で・・・、ここからが本題なのですが。

「学校と呼ばれる場所で行われる”評価”とは、
 どのような教育的意味を持つのだろう・・・?」


学校の先生になった当初から、疑問に思ってきました。
先生1年目の学期末、
ある先輩の先生から評価についてこんなお言葉をかけられました。

先生という仕事は、”評価をつける”対価として給料をもらっている

もちろんそれが全てではないというニュアンスは含まれていましたが、
新米1年目の教員が”人に評価をつける”=一番大事な仕事!と理解するには
十分なお言葉でした。

この時の私の評価に対する理解は、
教育的な意味というのはほとんどなかったように思います。
先生が先生たる理由と言いますか、先生の社会的価値(?)と言いますか、
先生という立場ができる特殊な業務のことを”評価をつける”ことだと
理解していたのでしょう。
逆に言えば、”評価をつける”ことのできるほどの立場だから、
社会の中で今まで”先生”と呼ばれてきたのだろうという理解です。


んー・・・今振り返ってみれば、
この時の自分は
”評価”=評価するのではなく
”評価”=評定をつけると理解していたのだなあ・・・。
いわゆる通知表に載せる数字をつけるに等しい業務です。

確かに、中学校の先生として通知表に載せる数字が
どういう影響力を持っているのかを身をもって知っています。

  • 生徒は通知表の数字の変化を見たり、合計を計算したりする。

  • 保護者も、通知表の数字の変化を見たり、合計を計算したりする。

  • 先生も、通知表の数字の変化を見たり、合計を計算したりする。

なぜならば、その通知表の数字が進路選択の自由度に影響するから。
人の人生選択の幅を変化させるほどのことなのだから、
故に先生という立場で評価をつけるという業務の対価として
給料をもらえているんだという言葉まで出てくるのでしょう。


最初の疑問に戻ります。
「学校と呼ばれる場所で行われる”評価”とは、
 どのような教育的意味を持つのだろう・・・?」
これはあくまでも私の話に限りますが、
”評価”=評定をつけると理解していた頃の自分は、
評価に教育的意味を持ち合わせていませんでした。
『学校の中における生徒の言動や表現物は、評定に集約されるものだ」
評定をつけるために言動や表現物を記録・収集するのだ、という考えです。いやはや、文字にするとなかなか強烈な思想ですね。
ですが、これが私の経験した現実でした。

果たして今現在IB校で先生という立場にいる自分は、
”評価”をどのように捉えているのか。
次の投稿に書いていくことにします。

あ・・・、玉ねぎ麹の話の続きも次の投稿ですることにします笑

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