拒絶された気がして、生きるのを拒絶し、学びを得た話

わたしは嘔吐恐怖症を抱えている。

先日、拒食症を克服した方とお話ししていたら

食べ物を拒否することは

生きることを拒絶している

という話になり

わたしもそうだったのだろうか?と考えてみた。


厳密に区別すると

嘔吐恐怖で食べたくない(吐くのが怖い)
のと
拒食症で食べたくない(太るのが怖い)のは

個人的にはちょっと違う感覚がしている・・

でも汚い醜い自分が許せないのは同じなのかもしれない・・


それで、わたしが精神疾患になった当初のことを思い出した。

確かに、拒絶されたと感じたことがあった。


どんなに頑張っても上司に認めてもらえなかった。

母に分かってもらえなかった。(ように感じた)

彼氏にも味方になってもらえなかった。


大切な人たちに拒絶されたと感じた。

孤独を感じ、閉ざした。

当時の友達の慰めもほとんど効果がなかった。


思えば子どもの頃、

言いたいことを言って、大切な人を悲しませる

という体験をして、

言いたいことが言えなくなった。
(吐きたいのに吐けなくなった)


惨めな自分、汚い自分を出してはいけない

言いたいことは言ってはいけない


嫌われることを恐れ

見捨てられることを恐れ

拒否拒絶されることを恐れていた。


そして拒絶されたと感じた時

わたしなんて存在しない方がいいと思った。

実際には拒絶されたように感じただけで

たまたま考えることが違っただけなのだが。


考えが違うことを受け取れなくて

存在否定されたと感じた。


今だと、なんと大袈裟な!

と思うが、当時、何も学んでいない自分には

死活問題だった。


そしていろいろな学びを得た自分が

今思うことは、

・人の評価で生きるのをやめる

・認めてもらえなくてもいい
(自分にも認められないことはある)

・人は分かり合えないものという前提
 分かってもらおうとするのをやめた
 分かってよ!ではなく、違う意見を認める
 人は違うことが当たり前、違うことが前提

・伝えることはできる
 伝えて、相手の反応は相手に任せる

・味方になってもらえなくてもいい
 すべての人の価値観は違う
 価値観の違いによって、味方になれないこともある
 だからといって、敵ではない
 

・100%受け入れられるのは自分だけ
 というか自分のことも100%は受け入れられない笑
 白黒ではなく、グレーでいい
 人にも求めない
 不可能なことを期待しない


という学びにたどり着いた。

時々忘れることもあるけど、

この辺りのことが分かってから

存在否定されたと感じることは少なくなった。


一番大事なのは

自分で自分の存在否定をしていないか

であるが。


病気で何もできなくなった時

ただ生きることだけをさせられた気がした。

その当時は

こんなに何もできない自分は生きていても意味がない

生きているだけで迷惑をかけている

死んだ方がマシだ

とずっと思っていた。


けれど、どんなに死にたいと思っても

死ぬことはできなかった。


そのような状態で生かされたということは

生きていていいよ

と大いなる存在に言われているような気がした。


無条件で生きていていい


人間は何かができるから

生きている価値があるのではなく

存在そのものに価値がある。


いまだに何かをしなければ!

と焦ることが多々あるが

あの究極体験のおかげで

少しそう思えた。


今そう思えない人もいるだろうし

わたしも未だに思えない時があるから

何とも言えないけど

本当にそうなんじゃないかなって

思うことが時々あるし

そう思うと

かすかな希望が湧く。

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