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南瓜粥のおもいで


毒にも薬にもならない、時間を取るだけの話です。

大学生の時、1年間北京に交換留学をしていた。北京は冬は寒く夏は暑く空気は汚く、ある程度勉強していったとはいえど生の中国語を前にして聞き取れないことも多く、最初の半年はずっと帰りたいと思っていた。

最初はキャンパス内にあるきれいな留学生寮に住んでいたのだが、もっとローカルな環境に身をおいたほうが中国のことも知れて中国語も伸びるのでは、といったような理由だったと思うが、いわゆるルームシェアやシェアハウスを募集するサイトを使って大学の近くにある団地の一部屋に住むことにした。とりあえず中国語が聞こえるようにならないと授業も生活もつらいままだからなんとかしなくてはという切迫感故の行動のような気もするし、単純な興味関心故のような気もするし、みんなと違う行動として寮を抜けようとかいう動機だった気もする。

ともかく、大学の近くで一部屋借りれそうなところを、内見も兼ねて見に行くことになった。

大学の門から少し南に歩くと、東西南北の方向に数車線を有する巨大な交差点があった。その上に覆いかぶさるまるで大きな蜘蛛のような灰色の歩道橋を渡ると、北京の街を環状に走る大きな道の東西方向の流れに沿って、地下鉄の出口がある。さらにその横の少し奥まったところには盲人按摩の店がった。

大通りにはバス停もあり、人の往来も賑やかであるから新聞紙や飲料を売るスタンドや、1日にいくら儲けがあるのかわからないような小さな露天がいくつか並んでいた。少し歩くとそのアパートがある小区の北側の入り口があった。小区というのは、ざっくりいえば、団地みたいな住宅街の一区画ことである。周囲はぐるっとフェンスや格子に囲まれていてその中に公園やちょっとしたお店も入っている生活コミュニティだ。僕がいた小区には小さい公園とちょっとした安い食べ物屋さん(麻辣烫のお店がお気に入りだった)、それに八百屋や果物屋もあった。門があるとはいえ、当時は別に小区の中の出入りは管理されておらず自由に門のところから移動ができたので単に門のところからしか出入りができないことをめんどくさく思っていた。昨今の中国の様子から踏まえると恐らくは、今はもっと厳格になっているのだろう。

待ち合わせ場所に行くと赤塚不二夫のキャラクターに似ているおばちゃんがいた。ずっと似ていると思っていたが今回はじめてそのキャラの名前を調べたら「イヤミ」というらしい。当時既にキャラの名前を知っていたらおばちゃんにも「もしかして嫌味な性格なのではないか」と偏見をもってしまいそうなので知らなくてよかった、と思った。

ほんとに似てる

ともかくこの赤塚不二夫作画のおばちゃんはニコニコしながら、どこか僕の知らない社会主義の香りがほんのり残る薄汚い団地アパートの入り口に案内してくれた。入り口にはポストがあり、階段がある。窓から光は入るが分厚いコンクリートに阻まれ何だか薄暗く、光化学スモッグで覆われどんより灰色の北京の街の空みたいだった。外国人留学生向けのピカピカの留学生とは全く違い、わずか1km未満の距離なのに、中国の幅広さを少し実感した。

3階だったか4階だったか忘れてしまったが、ギリギリ息が切れないくらいの距離の階段を上がると木製の重そうなドアがあり、そこが僕の住まい候補らしい(もちろんエレベーターはない)。中に入ると、小さなリビングがあり、その周囲にいくつか部屋が配置されている。たぶん3、4部屋はあったと思う。トイレと浴槽もあるが窓はないのでここもまたどんよりとしている。一応浴槽はあるが、つかる想定はなさそうでシャワーを浴槽内で浴びるのだろう。

トイレや浴槽は供用で、個室の部屋を専有部として借りる。僕が見せられた部屋は、頼りないフック式の内鍵で守られた小さな部屋である。若草色に少し水色を足したような独特なカラーチョイスの壁に、安っぽいシングルベッドと小さな机と椅子、それに申し訳程度の収納だった気がする。狭いが、当時はスーツケース二つくらいできていたので特に問題はない。大学からの近さと予算などを考慮して、早々とここに決めた。今思うと、色々不安なこともあり、よく決めたなという感じはある。あと多分合法ではないか合法であったとしてもかなりグレーな気がする(防火基準とか)。

まぁ、何はともあれ僕はその古いアパートの一室での生活をはじめた。朝起きて大学に行き、学食で昼を食べ、夜に少し図書館で勉強したりプールで泳いだりして毎日(住んでるので当たり前)、大きな蜘蛛の歩道橋を渡り、その家に帰るのだ。

薄暗く陰気臭い階段を登り木製の重いドアを開けると、その横に小さな部屋がある。それこそ、この赤塚不二夫作画のおばちゃんの居室であり、大家の部屋である。帰宅するとおばちゃんは大体部屋にいて、「お帰り」と少し甲高い声で言ってくれる。帰宅時間にもよるが、たいてい「你吃饭了吗?(飯食ったか?)」と声をかけてくれる。そこで僕が食べてないというと、おばちゃんはたいてい作ったご飯がまだあるから一緒に食べようと言ってくれるのだ。決して豪華ではないが、手作りの食事というのは当時の僕にとっては得難いものであり、赤塚不二夫作画に似てるなぁ、と思いながらありがたくおばちゃんと一緒に食卓を囲み色々な話をした。不思議なことにその所謂シェアハウスには僕の他にも一室を借りているメンバーが色々いて短期での入れ替えやある程度まとまった期間住んでいたりしたのだが、食卓は常に僕とおばちゃんとの2人だった。

おばちゃんが作る料理は、中国の家庭料理、所謂“家常菜“なのだが、その中でも僕が一番好きなものが、南瓜粥、カボチャのお粥だった。日本ではどうしても体調不良の際の食事のイメージがあるお粥だが、中国では平時の立派な食事である。大学の学食でもお粥専門の食堂などもあるくらいだ。しかしながら僕の中では甘いかぼちゃのお粥を食事のお供にするイメージが当初なく、お粥を食べるにしても皮蛋瘦肉粥(ピータンとそぼろ肉のお粥、定番でおいしい)ばかり食べていた。なので最初におばちゃんがカボチャのお粥をだしてくれたときは正直乗り気はしなかったのだ。

とはいえニコニコしたおばちゃんの手料理を断る理由にはならないので、魔法鍋のような容器にたっぷり入った黄金に輝くとろとろのかぼちゃ粥を装ってもらって恐る恐る口にした。もうお気づきかと思うが、これが美味しいのなんの。かぼちゃの甘みとご飯の旨味が口の中で幸せに溶け合うのだ、非常好吃。これ以来、僕のお気に入りの中華料理の一つに南瓜粥が加わった。

時は流れ、ついに帰国することになった。中国語はだいぶ喋れるようになったし、もう来たばかりの時のように帰りたいとも思っていなかったが、それでも1年ぶりに日本に帰ることができるというのは帰国後待ち受ける就職活動を考慮しても楽しみに思った。カウントダウンが1日1日過ぎていく。おばちゃんは別れを惜しんでくれ、最後にまた一緒にご飯を食べよう、何か食べたいものはあるか、と聞いてくれた。

答えはもちろん、南瓜粥である。

結局何度食べさせてもらったか覚えていないが、僕が美味しい美味しいと言って食べるからか、どんどん南瓜のお粥の頻度は高くなっていた気がする。最後の南瓜粥は、ちょっとしょっぱかった、なんてことはないが、相変わらず黄金に輝く優しい味だった。

その後も日本での中華料理屋さんなどで南瓜粥を見るたびに、異国の地で心細いであろう若者を思いやって色々と世話を焼いてくれた赤塚不二夫作画のおばちゃんと、辛くも楽しく学びのあった北京での生活を思い出すのである。


......

ちなみにおばちゃんは河北か河南の出身でいわゆる地方出身であるが、いくつか北京に不動産を持っている資産家であるようだった。全くそんなふうに見えないのだが。どうやって財をなしたのか不思議に思っていたのが、おばちゃんの部屋には複数のモニターがあり毎日毎日短期での株トレードをしていた。おばちゃんは意外とやり手だったのだな、と思う。元気かなぁ。

もうしばらく北京に行っていないが、もし機会があればまたおばちゃんの南瓜粥を食べたいな、と思う。けれども同時に変わりゆく中国で10年以上経って同じ空間が残されているとも思えないのである。切ないがおそらく事実だ。

きっと僕はもう2度とあの南瓜粥を食べることはないのだろうし、赤塚不二夫作画のおばちゃんにも会うことはないし、いつか忘れてしまうのだろう。もっといえば日本と中国の政治的な関係がより危うくなる可能性だって僕が生きている間にないわけではない。だから、こうしていつかまた読み返した時にあの優しい味を思い出せるようにしておきたいな、と思った。

(追記)昔書いてた記録から当時のものが写真付きで見つかった。

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