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サイン会に行く-山田詠美と私-(前編)

    サイン本について二回、ここにいろいろと書き連ねてきたが、このままずるずるそれだけを書き続けるわけにもいかない。
 話が横道にそれるが、ぼくは数字の「3」に絡む言葉が結構すきである。『二度あることは三度ある』と『三度目の正直』。何かにつけて二回目までは惰性が許される気がする。しかしそれも三回目となると、何かを選択する際に「なんとなく」という軽い空気が許されないようにも思えてくる。突き進むのか、逃げるのか、その判断を迫られる機会は三回目に訪れることが多い。それはあくまで個人の思いこみではあるが、今回は『三度目の正直』でサイン会のことを書いてみる。
 サイン会について書くにあたり、時間がかかった理由はこれに尽きる。探せど探せど、初めて足を運び、手に入れたサイン本が見つからなかったからだ。正直なところ、焦った。サイン会について書くと言いながら、すっかり出鼻を挫かれた。この十年、五回引っ越していて、その間に紛失したと思われる。……引っ越しはあまりするものではない。

 いまのぼく、つまりサイン会や講演会に行くことが好きなぼくを知る人にこの話しをすると一様に驚かれるが、初めてサイン会に行ったきっかけは自分の意思ではなかった。
 柳美里のところにも少し書いたが、小説家のサイン本すら斬新に思えたその昔、小説家がサイン会をするという発想がなかった。いまでこそ、あちこちサイン会があれば出かけて、物故者で欲しいサイン本があれば東京は神田・神保町に足を運ぶぼくも、二十年ほど昔はサイン会や講演会、小説家と触れあえる機会に参加するというのは右も左も判らないとどころか、そんな機会があることすら知らない人間だった。
 しかし大学時代は通学時間が往復で四時間ほどあったので、一日一冊、単行本なり文庫本なり「小説」は読んでいた。「小説」ここは大文字で書きたいくらいだ。小説以外のほかの本はほとんど読まずにきたので、その影響はいまも深刻で、作家といえば小説家とイコールになるし、本屋といえば小説コーナーがすべてを指すし、出版社や編集者は東京にしか存在しないと信じきっているといっても過言ではない。
 それでもいま振り返ると、それなりに読んでいたおかげで、あとあとサイン会や講演会に参加するときも、「この人に会ってみたいな」とか「この人の話は聞いてみたいな」という、いわば「受動型」の動機から「能動型」の動機にシフトできたのは幸運だったと思う。
 しかしこれから書く話しは、いまの自分から見てみると数少ない「受動型」の記憶である。存命の方を書くことは果たしていいのだろうか、そこは少し悩んだ。しかしぼくが感じたサイン会の記憶であり、記録であるし、綴ることにした。そもそもその場で何かしらの悪印象が強ければ、書き残そうとは思わない。

 初めて参加したサイン会は山田詠美だった。いまからおよそ二十年前、大学を卒業してすぐの頃だ。山田詠美の名前は、小説を読んでいる人なら知らないひとはいないだろう。現在、芥川賞選考委員もされている方であるし、ぼくが小説に触れるよりもはるか昔から、小説の第一線で活躍されている方だ。
 当時、ほかにも読んでいる小説家は複数いたが、なぜ初めて行くサイン会が山田詠美だったのか。理由は非常に単純だ。後輩に誘われて、時間もとれそうだからおつきあいでついて行った次第である。思い返してみても、単純すぎるとしかいいようがない。
 しかし後輩に半ば強引に連れて行かれたのは幸運だったというほかない。ちなみにその後、そのサイン会も含めて山田詠美のサイン会だけでも四回も足を運ぶことになるのだから、人生はつくづく判らない。
 その後輩も小説が好きだったが、とりわけ山田詠美を偏愛していた。
 そういえばどうして山田詠美を敬愛していたのか、その理由を尋ねたことがない。いまの若者といわれる世代が山田詠美にたいしてどういう評価を下しているのかは知るよしもない。しかしいまも各出版社が夏休みに展開する文庫本の読書キャンペーンの目録を眺めていると、だいたい山田詠美の作品は取りあげられている。したがって二十年前ほどではないにしても、それなりに若い年齢層の読者にも影響力はあるのではないだろうか。当時は女性で小説を読んでいますという同年代の人に出会うと、ほぼ全員、山田詠美の名前を挙げていた。
 山田詠美は多くの乙女にとって、あこがれであり、カリスマ的存在だった。しかしぼくは、山田詠美を勧められたら読むが、自分から読む人間ではなかった。当時はこの後輩か、懇意にしていた大学の恩師の薦めがあれば手に取っていたくらいだ。
 このサイン会に誘われるはるか前、まだ高校生だった時分、先輩に山田詠美の信奉者がいた。当時、まだ日本の現代小説に手を伸ばしたばかりの自分が「何かお薦めの本を教えてほしい」と何かの折に伝えたところ、差しだされたのが山田詠美だった。本のタイトルは『放課後の音符』というもので、当時としては珍しく(いまでも珍しいか)、単行本の表紙はパラフィン紙に覆われていた。桃色が基調の表紙で、それをめくろうとするとパラフィン紙が粉々にはじけてしまいそうなはかない音がしたので、物語の筋道よりも、ページをめくるのに神経をとがらせていた。実際、その先輩には「この本は私にとって聖書みたいなものなので、丁寧に扱ってほしい」と念押しされていた。おかげで当時の自分はいかに傷つけずに読破して返すか、そのことに気をとられてすぎて、いまとなっては残念ながらどのような作品だったかはおろか、読後の感想すら思い浮かばない。
 その後、その先輩からはもう一冊、『ぼくは勉強ができない』を貸していただいた。新潮文庫から表紙を変えていまも出ているはずだし、いまでは文春文庫でも手に入るはずだ。ぼくが読んでから二十年以上、おそらくこの小説が出版されてから数えるとさらに月日が流れているはずだが、いまなお本屋に並べられているということは、それだけ読み手の心に響くものがあるのだろう。
 青春時代を取り巻く環境も、この二十年でずいぶんと変化した。きっと大切な人に思いを伝える手段は、下駄箱に入れる手紙から、ポケベル、PHSや携帯電話の字数制限のあるメッセージ、やがてメールとなり、いまはラインといったところだろうか……。しかし青春時代の多くの諸問題は、使われる道具や、食べ物や流行歌といった表層的なところはいろいろ変化しているように見受けられるが、抱えている悩みや思い、目に見えない心の部分においてはそれほど変わらない。だからこそ、山田詠美の作品は、いまの若者から見たら「遙か昔」に書かれたものであっても、読者を得ているに違いない。
 最近、表向きの変化が著しく激しい。しかし見えない部分は案外、不変なのではないかと思うことが増えた。だからだろうか、最近になって自発的に山田詠美の作品に取り組むことが増えている。実際、前述の通りサイン会に四回足を運んでいるが、前半の二回は『受動的』に2000年代前半に参加しているが、それから長いこと間が開き、後半の二回は『能動的』に2019年に立て続けに足を運んでいる。このような読み方をする小説家は、いまのところ山田詠美しかいない。(しかし最近は、昔は読んでいたものの、いつしか離れた小説家に再び舞い戻ることも増えている。これは作家と読者の双方が生きているからこそ得られる喜びである)
 しかしサイン会に誘われた当時のぼくは、いまと比べると山田詠美の熱心な読者ではなかった。『放課後の音符』は読む以前にページをめくることに緊張した思い出しかないし、その後読んだ『ぼくは勉強ができない』も、なんというか、こんな大人びた高校生なんているわけないじゃんと、自分の高校生活を俯瞰しながら共感どころか毒づいていた。
 そのような経緯もあり、山田詠美にはこちらから触手を伸ばすことがないまま、後輩に誘われたのでサイン会に同伴するという流れになった次第である。

「山田詠美が京都に来るんです。私、山田詠美がすごい好きなんです。先輩も小説好きですよね? それなら一緒に行きましょう」と、確かこんな感じで声をかけられた。久しぶりの山田詠美の青春小説と銘打たれた『PAY DAY!!』が発売され、その刊行記念のサイン会のようだ。前回のエッセイで軽く触れたが、いまはなき京都は四条烏丸のジュンク堂書店が会場らしい。
 断る理由もないので快諾すると、予約などの面倒くさい儀式はすべて後輩がしてくれた。少なくともこのサイン会において、ぼくが何かした記憶はない。ほんとうに受け身で参加することになった次第である。
 これはあとから知ったのだが、サイン会は基本的に100人までという具合に参加できる人数が決まっている。当日にその人数に到達していないとか、多少オーバーしていても作家さんがGOサインを出した場合は、当日の飛び入り参加が認められることもある。(ただ待ち時間は覚悟した方がいい)しかし山田詠美は、少なくともぼくが行った四回はすべて事前予約で定員を充たしていた。当日の飛び入り参加可能な枠は残されていなかった。これは単純に尊敬に値する。サイン会当日までに整理券がさばける方はなかなかいない。
 この小説家が好き。その気持ちはすごく大切なことだ。そしてそれ以上に「会うんだ」という情熱にも似た執念はもっと重要だ。なぜなら後輩が山田詠美が好きであることはもちろんだが、「会いたい」と願うほど好きだという気持ちがなければ、このサイン会の誘いはなかった。いち小説家にたいしてそれだけの気持ちを持ってもいいのだということを、ぼくはこの後輩から学んだ気がする。この後輩と出会えたことは、大学に通ってよかったと思えるほど、懐かしいひとこまだ。
 ほとんどのサイン会は、基本的には新刊が発売されてほどなく開催というのが圧倒的に多い。正確に計ったことはないが、発刊から二週間から一ヶ月ていど時間を空けて開催される事が一番多いかなと肌感覚として、ある。
 発刊してからサイン会までタイムラグがあると、発売日にいち早く整理券とともに本を手に入れたら、その物語を紡いだ作家に読後の感想なり、作家にたいする思いなりを直接伝えることができる。これは大きな利点だ。小説好き、もとい小説家好きにはたまらないひとときである。読んだ興奮冷めやらぬ中、感想をしたためた手紙を綴ることだって可能だ。それらの用意した言葉は、出版社や編集者などを介さず、ダイレクトに届く。そんな当たり前の事に気づいてからは、サイン会に行くのがより楽しみになるのだが、このときは何度も繰り返すように、まだおつきあいの状態である。
『PAY DAY!!』が発刊されてからサイン会までは、若干、時間があった。しかしこれは自分の感覚による実感なので根拠はない。確かなのは、発刊からサイン会までタイムラグがあるにも関わらず、二人とも四条通のジュンク堂から離れた場所に住んでいたため、当日まで本に触れることはなかったということだ。それは後輩に誘われてから、すべての段取りが整ったときに、「整理券の引き渡しと支払いはサイン会前に済ませれば大丈夫らしい」と報告を受けたことを記憶しているので間違いない。まして当時は山田詠美のいい読者ではないし、ましておつきあいで行く立場なので、自ら抜け駆けして新刊本を手に入れるという発想がなかった。そもそもサイン会で著者に感想を伝えられるということにすら、思いがいたらなかった。この当時はまだ、そのようなことは夢物語だった。
 初めて参加した山田詠美のサイン会が、具体的にいつ開催されたのかは、実は記憶の靄にかかっている。大切なことを曖昧にしたくないがために、頑張って『PAY DAY!!』の本を探したのだがいまも見つからない。(記憶ではそこに、サイン会告知がされている新聞広告を見つけて切り抜いて挟んでいたのに、そこまでしても行方不明というのが我ながら情けない)
 奥付は三月二十三日頃なので、暖かくなる季節だということは疑いようがない。それは記憶の中でも一致している。少なくともぼくと後輩はコートなどを羽織って、冬の装いで言った記憶はない。
 しかしタイムラグがあったがゆえ、サイン会が催されたのが三月だったか、四月だったか、はたまた五月だったか……そのあたりは非常に曖昧である。ただ場所は間違いない。後述していくが、やはり初めて参加したサイン会は、おつきあいとはいえ、その雰囲気はかなり鮮烈に記憶に刻まれている。それはきっと、いまにして振り返るとここでしか経験できなかった雰囲気も後押ししている。

(続く)

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