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あの日。東京から神戸の実家に着くまでに起こった出来事

 阪神淡路大震災26周年 〜あの日とその後〜

阪神淡路大震災が起きた1月17日の早朝、私は東京にいた。広告代理店の若手スタッフとして2時間前に眠ったばかりだった。2日後に控えたプレゼンのメンバーになっていて、連日の深夜作業でくたくただった。あの日。眠って2時間ほどで、電話でたたき起こされた。横浜に住む叔母からだった。
「としこちゃん?」
聞いたことがない、すごく低くてこわい声だった。
「テレビを見た?神戸の実家に連絡ついた?」
なんのことかわからず、慌ててテレビをつけたら、『神戸で大震災』との大きなテロップが飛び込んできた。
「嘘…」
神戸で大震災が起きるなんて嘘だと思った。東京の方が大地震が起こるイメージがあったからだ。テレビの報道スタジオでは、私の実家の近くに住む記者に電話がつながり、記者が状況を話していた。
「まわりの家が全て全壊しています!」
今ならスマホや SNSで映像もすぐに見られるだろうが、当時は記者による音声のレポートのみ。それが余計に恐ろしかった。すぐに叔母からの電話を切り、神戸の実家や親戚に電話をかけたが、回線がパンクして連絡がつかなかった。
そのほんの2週間前、正月で帰省した時、実家で交わした会話が脳裏に浮かんだ。
「古い家だから、地震があったらひとたまりもないなぁ」
なぜそんな会話を交わしたのだろう。私は、崩れ落ちた実家を思い浮かべ、火事を心配した。実家は昔ながらの木造家屋。万を超える蔵書がありトイレにも本棚があったほどで、まさに木と紙でできた家だ。
「私が家族を助けにいかなきゃ!」と強く思った。
荷物を準備しながら、テレビニュースでルートを確認。新幹線が動いていないことがわかり、飛行機で羽田から伊丹に向かうことにした。
早朝だったため、チケットは空港ですぐに取れた。同じ便には報道マンらしき人が何人も乗っていた。報道陣と同じ早さなら、神戸の実家にたどり着けるかもしれないと思った。とにかく、家族の安否を知りたかった。
シートではずっと手を合わせて無事を祈っていた。しばらくすると、希望者は機内から電話をかけてもよいとの機内アナウンスが流れた。航空会社のとてもありがたい配慮だった。機内備え付けの電話に並んで実家に電話をかけた。しかし全くつながらなかった。座席に戻ると、機内の大きなスクリーンにニュース映像が流れていた。そこには大きく火災や倒壊したビルが映っていた。一瞬「映画?」と思ったがすぐに分かった。「えっ、これって神戸の町のこと?」そう、報道番組の神戸のライブ映像だった。気がついたら私は泣いていた。伊丹空港に着くまで、ギュっと目を閉じ、家族の無事をただただ祈った。
着陸したときは分からなかったけど、伊丹空港も大きな被害を受けていた。空港のビル内に入ると、ザーッと水の音がして噴水かと思ったら、天井がひび割れて滝のように水が流れていた。ガラスも割れているし、停電もしていた。
「伊丹がこれだと、神戸はどうなっているんだろう」と、震源地に近い実家に向かう大変さを感じた。
空港内で公衆電話を見つけて実家にかけたが、やはり不通。しかし、宝塚に新居を構えていた弟に電話がつながった。早朝、両親と電話で話せたと言う。地震直後までは無事だったとわかり、かなりホッとした。私が伊丹空港から震源地に近い実家に向かうと聞いて、弟は「辿りつくのは無理じゃないか。そのまま飛行機で東京に戻った方がいいんじゃないか」と心配してくれたが、機内でみたニュース映像の火災が脳裏に浮かんだ。火災が心配なのでやはり実家に向かうことにした。
さて。電車は止まっているし、バスはそのような長い路線はない。空港からはタクシーで向かうしかない。現金も必要になるかもしれない。
東京では早朝でATMが使えなかったため、伊丹空港で現金をおろすつもりでいた。停電中でATMが使えるか不安になったが、なんとか使える機械を見つけて10万ほどおろした。
そして、ATMそばの扉から外に出ると、幸運にも目の前に一台のタクシーがとまっていた!「朝だから空車があってラッキー!」と思い、そのまま乗車させてもらったら、ちょうど客を降ろしたところだと言う。空港の関係者が、緊急呼び出しでタクシー出社し、普段は停めない場所で降車したところだったそうだ。運転手は震災だしもう会社に戻ろうと思っていたが、私が手を挙げたので乗せてくれたのだという。ただし、私が行きたい神戸の西側はかなり遠い。さすがにそこまでは行けない。タクシー会社のある東大阪に戻るので、途中までならという条件で乗せてもらった。
タクシーのシートにやれやれと背をもたせ、空港の敷地から出る時、建物の前にたくさんの人が集まっているのが見えた。何の集まりだろうと思ったら、そこは正規のタクシー乗り場だった。そして、300人は超える列が出来ていた!私が乗車した場所は、たまたま空港関係者が降車した緊急の場所だったわけだ。このタクシーに乗れなかったら、淡路島が見える実家には決してたどりつかなかっただろうと思う。
さて、タクシーで町に出ると、地割れや倒壊がどんどんひどくなっていった。橋があっても渡れない、道があっても地割れで通れない。通行禁止ばかりで迂回することが増えていった。また、あちこちで切れた電線がぶらさがっていた。その電線が余震と風で激しくしなり、鞭のように道路をたたいている場所もあった。信号は停電で色がなくなり、家屋の壁は倒壊、道らしい道はなく、瓦礫に土埃が舞い、あちこちでガスの匂いがしていた。実家どころか神戸はまだまだ遠いのに、そんな状態だ。しばらく走ると、「すみません、お客さん、そろそろ降りていただかないと」と申し訳なさそうな運転手の声がした。
「大阪方面に戻らないと」。
「そうですよね‥」。
私が困ったなぁと思っていると、急に運転手が、
「あっ、後ろにタクシーがいる!甲子園の会社のタクシーだから、乗せてくれるかもしれん」と言い、私の返事も待たずに「よっしゃ、おっちゃんが交渉してきたろ!」と車を降りていった。そして、さっさと話をまとめてきてくれた。「ちょうど神戸方面に行くらしい」。お客さんを迎えに行くので、神戸の街中にある客先まで私を乗せてくれるという。
交渉してきてくれた運転手さんにお礼を言い、タクシー代を払おうとすると、いらないと言い、さっと手を振って爽やかに東大阪方面に去って行ったのだった。
次の甲子園のタクシーは、迎車だった。レギュラーで契約しているお客さんを神戸の街中にある仕事場まで迎えに行き、さらにその人の自宅まで送っていく予定だった。お客さんが乗るまでは私を乗せてくれるという。心からお礼を言い、タクシーの座席にもたれこんだ。前日からあまり寝ていないのに、窓から見える景色に、ますます目が冴えるばかり。粉塵が舞い上がって、風景が茶色っぽい。あちこちで火災が起こったり、小さな爆発音がしていた。怪獣映画のセットのようで現実感がなかった。でも現実だ。「時代なんかパッと変わる。」という広告コピーがあったのを思い出した。そして、神戸の中心街に近づくと、後にシンボリックなビジュアルとして有名になる、倒壊した高速道路が見えてきた。タクシーは、その横をゆっくりと蛇行しながら通り抜けた。衝撃だった。高速道路が横倒しになるなんて!私が通った時は、まだ交通規制がはられていなかった。その後、空撮の写真や映像は何度も目にしたが、倒壊した真横から肉眼で見たあの日の高速道路の光景は、忘れられない。
私が乗ったタクシーが走るすぐ横、高速道路の下では大きなトラックに道路が乗っかり、地震の瞬間で時間が止まっていた。巨大なコンクリート片が、バラバラと下の国道に降り注いだのだろう、たくさんの乗用車を潰していた。巨大なコンクリート塊の下で原型を留めていない自動車と、免れて傷ひとつない自動車が、ほぼ一台おきに並んでいた。それは、走行中、1秒の差が生死を分けたことを示していた。私は、思わず手を合わせていた。潰れた車を見ながら、助かったのか、まだ中に人がいるのじゃないかと気になったが、通り抜けることしかできない。高速道路脇の道では、ずっと心臓がバクバクしていた。
しばらく行くとタクシーは、埃が舞う神戸の中心街に入っていった。ビル街が無造作に積まれて崩された積木のようだった。そんな風景を目の当たりにしながらも、タクシーは予約客の事務所のある建物の前に到着した。その建物も道も解体工事中のような状況で、中から人が出てくるのにも一苦労だった。タクシードライバーとの約束では私はここで降車する予定だったが、事情を話すと、ご厚意で、さらに、その先まで乗せてもらえることになった。偶然にもその人たちの行き先が、私の実家方面だったのだ。
さて。タクシーを予約したお客さんは年配の母娘で、目的地は高台にあるご自宅だった。車はどんどん山の方へ向かう。その頃には、もう日が暮れかけていていた。木々の合間から街を見下ろせる場所があり、タクシーの窓から真っ赤な夕焼けが見えたと思うまもなく、それは見下ろした町の大火災が空まで赤くしているのだとわかって愕然とした。後で知ったが、長田の大火災だった。戦争の空襲のシーンのようだった。でも戦闘機はいない。町が火柱を上げて空まで燃えているようだった。神戸の西半分が焼け続けているように感じた。もしそうなら実家は焼けている。

お客さんたちを降ろしたタクシーは、そのまま帰社することになった。日が暮れはじめ、だんだん暗くなってきていた。街灯も信号もない今の状況だと、神戸から甲子園に戻れなくなってしまうと言う。そこで私は、高台から幹線道路沿いまで乗せてもらってから降りることになった。できれば、自転車屋さんがある所かタクシーがいる場所で降りたかったが、そうそう都合良くはいかない。
お礼を言いタクシー代を払おうとすると、タクシードライバーは、さっきのお客さんにお代はいただいたのでいらないと言って、また爽やかに去って行った。
タクシーが去ると、停電で真っ暗な道を一人で歩くことになった。歩きながら、さっきの大きな火事の気配がないことに気づいた。延焼は止められているのだろうか。ほっとしたり、ひとり歩きで少し心細くなったりしながら歩いた。不安になりながらも、何とかなると自分に言いきかせて歩き出した。暗くても、神戸は、山は北側、海は南側だから、だいたいの方向はわかる。 信号も、街の灯りも、ランドマークも頼れないから頼れるのは、本能だ!呼び寄せ力だ!潜在能力だ!なんでもいいから、目覚めてくれ〜と思いながら、西に向かって歩き続けた。
途中で、焚き火をしている家族を見かけた。小学生くらいの子もいる。半分傾いた家と全壊した塀の向こうに、焚き火の光が見えた。父親らしい男性が、壊れた家の玄関の板を剥がし、ぽんっと焚き火に投げ入れた。暖房にするため、我が家を燃料にするなんてさぞかし辛いだろう、と思いながら近づいて驚いた。親子は楽しそうに会話し大笑いしながら、焚き火にあたっていた。全然へこたれず、活き活きとしていた。私は、被災している彼らから、逆に力をもらった気がした。もちろん、悲しみの中にあるたくさんの人もいたのだけれど、被災者はただ弱いだけの存在ではないと、最初に知った光景だった。
とは言え、町はそこら中でほこりが舞い、ガス臭く、瓦礫だらけだ。ハンカチで口をおおいながら、どれくらい歩いただろうか。タクシーが来ないかな、ヒッチハイクしようかしらと思いながら歩いていたが、暗くなってきて信号も街灯もないため、走っている車が減ってきていた。そこへ、報道の中継車が走ってきた。あ、報道の車だ!と目を向けた瞬間、中継車の後ろにタクシーの空車がいるのが見えた。すかさず「タクシー!」手を挙げたらとまってくれた。しかし、真っ暗なので、会社に戻る方向なら乗せてあげるけど、反対方向なら無理だと言われた。おそるおそる聞くと、信じられない幸運!3台目のそのタクシーは、実家がある区にある小さなタクシー会社だった。そして、私の実家はその会社に向かう途中で降りれば良いことがわかった。地元のタクシーだったおかげで、そこから実家まで、通行止めだらけの真っ暗な震災の町なのに、スペシャルな抜け道を駆使して、スイスイと私を運んでくれたのだった。
そして降りる時のこと‥やはりの出来事。その3台目の運転手も「お代はいいからね、帰る途中だったから」って言って、爽やかに去って行ったのだった。
結局、伊丹空港から神戸の西側のエリアまでタクシーを3台乗り継ぎ、11時間かかって実家の近くに辿りついた。迂回などして相当の道のりを走ったと思うのだが、どのタクシーも料金を受け取らなかったのだった。

さて。3台目のタクシーを降りた場所は、商店街の外れ。私の実家は、そこから商店街を抜けて、住宅街に入って少し歩いた場所にある。小走りなら5分とかからないところだが、停電で自分の足元さえ見えなかった。私は懐中電灯をとりだした。路上には大きな瓦礫がいくつも転がっている。私は、恐る恐る歩きだした。すると、いきなり目が慣れて、明るい!と思った。何の光?と思ったら、満月だった。街中が停電していると月はあんなにも明るいのか、と思った。道が明るく照らし出されて、ほっとしたのもつかの間、両側の商店がはっきり見えた瞬間、ゾッとした。見慣れた商店街のほとんどが二階建のはずなのに、二階が一階になっていた。つまり店という店の一階部分が完全に潰れていたのである。商店街の方たちはどうなったのだろう。そして実家はどうなっているのだろう。
私は、月明かりを頼りに大急ぎで家に向かった。普段は5分かからない距離を、さまざまな瓦礫を超えて進むために15分以上かかった。実家の門が見えてきた。二階建の家は、すこし傾いていたがなんとか形を保っていた。火事も起こっていないようだった。
近づくと玄関のドアに毛布が貼られていた。中にチラチラと灯りが見えて人の気配がした。
「ただいま!」と声をかけると、中から母が出てきて、「あれ?どうしたの?」とびっくりした顔で言った。
「どうしたのって‥」私は絶句してしまった。母は「としこが‥」と中に向かって父に話しかけながら部屋に入っていった。私は玄関から靴のまま家に上がり、リビングをのぞいたら、石油ストーブでお湯を沸かしながら、父が「おう」と言ってふりむいた。二人とも私の登場にきょとんとしていた。
「二人を瓦礫から掘り起こさなきゃならないかと思って来たんだよ!」と言ったら、
「そんなん、いいのに。うちなんか大した被害じゃないのに。」などと言う。
家が歪み、壁にすきまができて、家具がミキサーにかけられたような惨状だが、確かに無事であるだけで大したことないと言えた。
部屋を見回すと、隙間だらけの壁に、寒さしのぎに毛布が貼られ、遊牧民のテントのようになっていた。父も母も何枚もセーターを重ね着し、派手なスカーフやマフラーを巻いていた。そして、石油ストーブでお湯を沸かして寒さと乾燥をやり過ごしていた。ロシアの絵本に出てくる老夫婦みたいだと思った。そのとたん、なぜか大爆笑してしまった。「なに笑ってるのよ〜」と母が不思議そうに言った。
「だって、二人ともそんな派手なセーター着て、スカーフ巻いてるんだもん」
気持ちのハリが解けて、涙が出るほど笑った。

その夜は、ダイニングの大きなテーブルの下に布団を敷いて、3人で横になった。老犬も一緒だ。でも激しい余震で眠れないから、とりとめのない会話をする。
「朝、すごく揺れたから、神戸がこんなに揺れたんなら、東京はどんなに揺れたかと心配してたんよ」などと母は言い、逆に心配されていたことも知った。
そして、また揺れたり、寝そうになったりしてうとうとしていた頃、ドンドン!と玄関をたたく音がして飛び起きた。
玄関には叔父が立っていた。弟が神戸市内の叔父に電話をして、両親を見に行ってくれと頼んだらしかった。叔父の家は無傷でライフラインも全く損なわれていなかったので、泊めてもらって、入浴もさせてもらい、本当にありがたかった。

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その次の日から、電話が繋がりはじめ、様々な人たちからジャンジャン安否確認の連絡が入ってきた。父の関係者から「ご無事ですか?」と電話が入り、怪我もないと伝えると本当に「ああよかった!」と心から言ってくださる方がいたり。私が不在の時には、母の高校時代のボーイフレンドが遠くの県からバイクで訪ねてきてくれたりもしたらしい。その後、実家は全壊指定され、建て替えるまでの間、両親は近くのアパートに住んでいたのだが、実家の片付けをそれはそれは多くの方に手伝っていただいたようだった。
私は数日間神戸に滞在し、東京に戻った。東京に戻ると、あれは夢だったのかと思うくらい震災の影響などなく、人が普通に暮らしているのが不思議な気がした。何度も被災地の神戸と東京を行き来しながら、いつか、この経験の意味がわかるのだろうと思った。
ちなみに、私が参加する予定だったプレゼンは上司が「としこさんが戻ってからプレゼンできるように延期しておいたからね」とやさしく言ってくれて、ありがたいけどハードすぎるわ、と小さく落胆したのだった(笑)。

その後、ある飲み会で神戸での経験を話していたら「おめでとうというのはおかしいかもしれないけれど、良いことだと思える側面もある」と言った方がいた。それは当時の私にとって救いでもあった。震災を罰のように考える言説があったりして、それらのいくつかは被災者を傷つけるものであったから。でもネガティブ発言は、遠く高見の見物をしている人たちの想像による言葉だ。

震災の日見た生死を分ける光景や、被災しながら笑っていた親子が放っていた生きる力のようなものや、その後もいただいたたくさんの善意は、今も私の人生に影響を与え続けている。


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