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コラム【幸せと幸福感を混同している】 さらに厄介なことにそれは幸福感ですらない・・・ #017




■それは全く「幸せ」ではなく「幸福感」だ


自分の幸せは自分で決めればいい。だが【幸せとは本質的に何なのか?】ということを多くの人がわかっていない。わかっていないために、幸せではない別の何かを幸せだと錯覚している。

ほぼ全ての人が・・・日本に限らず外国でも「幸福を感じる物事が幸せだ」というバイアスを持っている。
しかしこれは控えめに言って間違っている。

もし幸福感×物事がセットなら、「感じる」ことができない全ての物事は「幸せというものではない」となってしまう。だが実際にはそんなことはない。
たとえば親が10年以上前から、自分の結婚資金をコツコツと貯めてくれていたっとしよう。そのことを知ったのは結婚の報告をした時だ。「式や旅行はこのお金を使いなさい」と通用を手渡され、中を見てみるとかなりの額が入っていた。
こういうとき私たちは幸福を感じる。つまり「幸福感」だ。

今までは感じていなかった。知らなかったからだ。しかし今この瞬間は違う。こんな10年以上もコツコツと自分の将来のことを考えてくれていた。その想いや行為は私たちの胸を打つ。「そんなことをしてくれる親」に感謝を感じ、感動し、愛されていたことを再確認し、今目の前でこうしていてくれること、これから結婚することを喜んでくれることなど、それら全てを包括して感無量の気持ちになる。

では、幸福(幸せ)とは、まさに通帳のことを知ったこの瞬間生まれ出たものか?そんなはずはない。
親が将来を考えてくれている、幸せになってほしいいつか結婚を喜びたい、お金の面だけど役に立ちたい、そういう親の接し方は10年以上前にスタートした。その間ずっと「今日感じた幸せはなかったもんね」となるわけがない。
自分が気がついていなかっただけで、感じてこなかっただけで、知らなかっただけで、幸せとはずっと自分の横にあったのだ。気がついた時や、感じた時に幸せになるのではない。


■幸せとは状態のことを指す。感情ではない


知らなければ、感じていなければ幸せではない・・・などというのは錯覚だ。
たとえば旦那さんor奥さんの誕生日にプレゼントをしたとしよう。幸せはプレゼントを受け取ったことなのか?違う。
なら、あれこれ迷ったり時間をかけてプレゼントを探してくれた行為のことか?そうだ、となりそうだがこれも違う。
そもそも誕生日だけではない、自分のことを気にかけてくれている毎日の積み重ねが手の内にあることが幸せのはずだ。プレゼントを買おうと思ってくれたことは、その中のたったひとつの物事でしかない。普段からそう想ってくれているなら誕生日にプレゼントがなくても「幸せ」だと言えるだろう。

幸せとは状態のことだ。
大きい幸せであれ小さい幸せであれ、気がついている幸福であれ気がついていない幸福であれ、それはかなり以前に手にしたもので、気がついた時に瞬間的に得られるものではない。

しかも、

私たちの感情はよく間違える。『対して幸せでないもの』に、つい幸福感を感じることがある。10年後には「あれはなんだったんだ?」と疑問に思うことすらある。
あるいは、やりたくもない仕事をして、付き合いたくもない人と付き合うことを余儀なくされた毎日がグレーな日々を過ごしている人は、その現実を忘れられることに幸福感を感じることがある。
それは幸福感であるとしても幸せではない。背景ごと不幸の中で「やってられない」から幸福を『感じられること』を確保しようとするだけだ。

いくら幸福を感じ、口にしても、その状態を幸福だと呼ぶことはできない。

幸福は「かなり以前に手にした」と書いた。前提ごとひっくるめて、過去から現在の時系列が良いものであれば幸福だと言える。逆に過去から現在までの現実背景が悪いものであれば不幸なのだ。
幸福の状態とは過去から現在の結果のことであり、貯金をしてくれた親に心が動いたような【事実】に基づく。必ずしも心が動くかどうかは重要ではない。


■しかし「幸福感」も別の感情と混同される


幸せでありたいと願うなら、現在を構築する過去を自分にとっての素晴らしいもの・こと、つまり事実で埋める。幸せにも強度や種類があるから、心から求めているものに囲われている方が、そこそこよいものに囲われているよりも幸福度は高い。
幸せの努力は心が求める事実を手の内にすることにある

さて、

幸福感を軸にするのではない、ということがわかってきたと思う。
幸福感を感じてはいけないとは言っていない。大事な感情なのだから十分に感じ、味わえばいい。
しかし「幸福感」だと感じているものの正体が、実は幸福感ではないということがある。それも目に余るほどよくある。

その代表的で誰も彼もがやってしまっていることが「幸福感」と「安心感」を履き違えることだ。
単純に単語が違うのだから、その意味するところも違う。しかし多くの人が安心感を得ることこそが幸せである・・・・と二重に間違う。

確かに、たとえば世界幸福度ランキングの項目には「政府への信頼性」や「犯罪率」なども含まれている。安心がなければ幸せであることはかなり難しい。これは貧困にも同じことが当てはまる。今日食べるものにも困っているのに幸せではいられない。
映画「ライフ・イズ・ビューティフル」の父親のような、突出した楽天的な個性がなければ、足元の不安定さと共に幸せであることは難しい。

しかしそれらは全て「幸せの土台」になるものだ。安心も安定もそれを得たからといって幸せであるとは言えない。
人は当たり前すぎるものに感謝ができないばかりか、認識することができない。

だから蛇口を捻って水が出ることに強い感謝と幸福感を感じるのは、これまで水道が引かれておらず何十キロ向こうの井戸まで水を汲みに行く必要があった貧困地域の人たちだ。
蛇口を捻るだけで水が出ることに彼らは幸福感を感じる。安心感は感じない。しかし我々のような先進国の人は改めてそのことを指摘されても幸福感を感じない。安心感なら感じることができる。
むしろ水道に不備があれば不満や文句を言う人すらいる。彼らは安心できないじゃないか、安定していないじゃないか!と指摘している。幸せがなくなった、不幸だ!とは言わない。

安心感を幸福感と混同するのは、たとえば持ち家を建てたとか、結婚して子供が生まれたとか、社会生活上の安定が手に入ること・・・つまり「心配しなくていい状態」のことを「良い状態」だと錯覚するからだ。
あるいはみんなは持ち家なのに、自分だけ賃貸だった。だけどそれももう終わりでそんなことを気にしなくていいという「不安な気持ちが解消されたとき」に感じる。
心配や不安の解消は、安心を喚起する。マイナスがないことが「幸せ」だとはならない。マイナスが強ければ「幸せ」どころではない、となるので混同してしまっている。


■「安心感」だけではなく「達成感」も幸福感と混同される


まだある。だがこれで最後だ。
幸福感と達成感もまた大きく混同される。

達成感とは何かを成し遂げたときに感じる良い感情のことだ。この良い感情は幸福感の良い感情に、同じではないが似ている。
達成感は人が持つ基本的な欲求と言ってもいい。人は何かをしようとする。行動をしないでおくことはなかなかできない。何かをしようとする。何かをするなら成果を出そうとする。何にもならないことをやり続けることはできない。
戦争捕虜に穴を掘らせ、またそれを埋めるという強制労働をさせる拷問がある。何の目的もない。掘って、埋める。また掘る。これで気が狂ってしまう人がいるらしい。

幸福感が過去から今に至る事実の積み重ねや、人の想いの重厚さに胸が熱くなるのに対して、達成感は今から成し遂げようとすることに足を踏み出し、ゴールに到達した時に感じる感情だ。
幸福感の時系列は過去から現在にあるが、達成感の時系列は基本的に現在から未来にある。
もちろん達成した時は全て過去になってしまっている。だから錯覚してしまう。

たとえば「結婚して幸せになる」という発言は、今からのことを言っている。言葉を換えるなら「それを達成する」と言っている。
「思い返してみれば幸せな結婚生活だったな」と言う時は、絶対に「これから達成する」と言っていない。
単に文章が過去形か未来形かということではなく、幸せが「ある」を基準にするのに対して、達成は「する」が基準になる。
あり方(be)の良い感情が幸福感で、やった結果(do)の良い感情が達成感だ。

ある一定の金持ちや成功者と話す機会はごまんとあった。彼らはこの区別つかない。成功したことによって幸せを図ろうとする。だから彼らに幸せを問うと高い確率で達成感のことを話し出す。
過去から現在の時系列のことを言う人もいるが、子供がいるとか好きなご飯を食べられるなど、頭で「よく考えたら幸せと言える」というものを、よくわかっていないまま取り上げる。成し遂げてなんぼの人は、成し遂げることと関係ないことを認識することができない。そのため概念とか思考で「幸せ」を定義する。幸福感は何かわからないし、達成感を感じたことじゃないけど「幸せってつまりこういうことでしょ」とする。


■他の何事もそうであるように、幸せも小さなことから事実を揃えるしかない


安心感と達成感が、幸福感と混同されるからといって「正しく幸福感を感じればいい」ではなかった。幸福感ではなく幸せを手の内にする必要がある。

幸福は自分の身の回りを取り巻く事実によって作られる。
この10年の人間関係が、とてつもなく素晴らしい人たちに囲われていた場合と、セクハラ部長や自己中な友達に囲われていた場合とで、どちらが幸せでどちらが不幸かは言わなくてもわかる。
なら次の10年も周囲の人や物、物事が自分の幸福を決める材料になる。

たとえばクローゼットの服は?乗っている車は?
リビングのソファやベッドはどんなものを使っている?
小物から大事まで多くのことが生きている過程に密接に関わっている。
10年間散らかった部屋で生きていくことと、整理整頓された部屋にいることと、どちらの方が幸せである可能性が高いだろう。

つまり「取り巻く事実」の作り方は、身の回りの小さなことからひとつひとつ「全て」に向かって理想通りの状態にしていくことにある。
理想とは誰かの良さではない。みんなが持ち家を建てたから自分も建てるというのは不幸の始まりでしかない。少なくともそこそこの幸せに自分を縛り付けることになってしまう。
いきなり大きなものを変えることは難しい。ひょっとするとすでに手にしているものの中には生涯変えられないものがあるかもしれない。コツコツと小さなことの数を増やしながら、変えられる大きなものに向かって順番にやることだと思う。普通に考えて「明日莫大に幸せ!」などということはない。そもそもコツコツ手前からやるものだ。
何を幸せとするかは人によって違う。だから幸せの基準は自分の心に問うしかなく、答えも自分の内側にしかない。この意味で幸せとは自分の内側(心)を現実に反映することだといえる。

その分量、内容、強度によって幸福度が決まる。

だが実際には国民の・・・・世界中の誰もがそうしない。大多数の人は与えられた安心と、錯覚の幸福感を組み合わせて「幸せ」を感じようとする。
そして死の間際、脳内ホルモンの影響で「良い人生だった」と思って死んでいく。大して幸せでなかったにもかかわらず。



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