見出し画像

発達障害者こそ本来の人間らしさを持っているという事実〜中動態的自己意識〜

現代社会が如何にイカれているかというのは前回記載したが、今回は人間らしさとはなにか、そして現代人が去勢し家畜化されていくさまを参考文献多めで書いてみよう。


すべては農業と定住革命から始まった

農業と定住は非人間的な生活スタイルだ。
人間は農業と定住により大集団化され、そこから文明が育まれた。
農業と定住は悪弊ばかりではない。ナチス的な進化論では、種の繁栄を支えたとして讃えられるだろう。
しかし一個人の人間にとっては、悪夢の始まりであった。

まずそれまでの人間は数百万年もの間、小集団での狩猟採集生活を行っていた。これだけでもたかだか数千年の農業定住生活が異常だということがわかるだろう。

全員が顔見知りの小集団で、あるテリトリー内の自然の恵みを享受しながらの生活。獲物やより良い環境を求めて移動を繰り返すことで、感染症や環境汚染もないシンプルな生活だった。
肉体は強靭で脳は現代人より大きく、精神は本当の意味で自由であった。
もちろん、今よりもずっと危険な生活だ。現代では注射一本で治る病気でも致命的であったし、他集団との争いは頻繁で最も多い死因は「他殺」であったといわれている。
「安全ではないが、人間本来の生活ができること」と現代を比較するとトレードオフ関係であり一概に評価することはできない。
最大の問題は、もはや人類は人間本来の生活に戻れない、選択肢がないというのが現代人の心の闇であると思う。

もちろん農業と定住の生活は苦難の連続であった。
移動しないため人口は増えるが、感染症や環境汚染が起こり、争いは大規模かつ残虐になっていき、それに対して非人間的な社会制度は拡充していく。
豊かさ・安全だけでいえば、人類はようやく現代になって多大な犠牲の投資回収が行われているように思う。
だがそれは、人間の本質的な部分を破壊することになるのだけれども。


発達障害者の感覚こそが人間らしい反応

文明以前の人間はすべて統合失調症であったという衝撃的な本。
デカルトからベイトソンへ」にも通ずる人間の意識の問題で、最近の脳科学でもこの極論はあながち間違っていないように思われる。
我々が意識だと思っているものは、実はそう思い込んでいるだけに過ぎない。
アントニオ・ダマシオの「ソマティックマーカー仮説」やトールノーレット・ランダーシュの「ユーザーイリュージョン」で示されているように、我々の意識は「意識がある」という幻想の上で成り立っている可能性がある。
実験で「手を上げようと思った時」に手を挙げさせても、いわゆる意識する前にすでに脳は反応しているという。
また表情筋が動いたから「笑っている/楽しい」、涙が出たから「泣いている/悲しい」という風に、我々が意識していると思っているコンマ数秒前にすでに「それは起こっている」のだ。

哲学者の國分功一郎は、中動態というかつて存在した概念/感覚を研究しているが、僕はこの感覚こそ人間らしい反応だと思っている。
中動態とは簡単にいうと、能動態でも受動態でもないものであり、主語に内包している自己意識と思ってもらえばよいか。西洋では古代ギリシャ時代まで、東洋では禅などでその影響を見ることができる。
例えばあなたがカツアゲされたとしよう。恐怖心からあなたは自ら財布を取り出し、お金を相手に渡す。
このとき、現代のように能動と受動しかない社会では「金を自主的に出した」と思われてしまう。たしかにカツアゲした人間が悪いが、金を差し出したのは自分だから責任は自分にあると。
中動態とはこの「カツアゲされて怖いから渋々金を出した自己」のような状況を指す。

発達障害傾向者は、やたら言い訳をするとか人間関係での空気が読めないと言われるが、僕はここに原因があると思う。
発達障害傾向者は、中動態の世界の中で生きているのだ。
だが、これは今まで紹介した本に書いてあるとおり、この感覚こそ人間らしい反応だ。
全て能動と受動/善と悪の二元論で片付けるのはほんの数千年の歴史しかないのだから。
この二元論の起源は文明化であり、法律であり、そして官僚制度だといわれている。

それでは具体例を挙げてみよう。
職場で上司に連絡するのを忘れて怒られたとしよう。
いわゆる普通の人は、言い訳が山ほどあっても「とりあえず謝っておいて今の場を落ち着かせよう」と思うだろう。
それは会社というヒエラルキーの中で、自らの置かれた状況と周囲の目、そして上司の特性からそう判断しているのだ。
なぜなら上司だって怒りたくて怒っているわけではなく、怒らないといけない立場だから怒っていると思うわけだ。

しかし発達障害者は中動態の感覚で生きているので、どうしても責任をすべて押し付けられるのには納得がいかない。
なぜなら連絡を忘れたことは、いくつもの原因があるからだ。
それは普段から上司から少々のことはいちいち報告するなと言われていたかもしれないし、何度も声をかけたが忙しいと取り合ってくれなかったからかもしれないし、別件で呼ばれていてそんな暇がなかったかもしれないのだ。

普通の社会人はここで「責任は自分にも多少あるから」と非を認めるよう教育されているから不服でも謝罪する。
しかし発達障害者は、責任という曖昧なものが納得できないからこそ明確にしようとする。
それが社会では空気が読めないと思ってしまう。
この自己と行動結果の間にある伸びしろのようなものの感覚の範囲が、発達障害者と普通の人々を分けるのではないだろうか?

中動態的感覚は、ソマティックマーカー仮説などと親和性が高いように思う。
「意識として発露されたもの」の前後の感覚の長さや影響が人によって違うからこそ、微妙なニュアンスの認識の差異を生む。
発達障害者は主語がないとか報連相をしないとか言われるが、これも『自己の領域だと思っている感覚範囲が広い』から起こるニュアンスの違いだと思う。

僕もよく他者との会話や仕事上での報連相で「だろう運転」をするので、コミュニケーションが円滑にいかないことがあった。
「(自分が知っているから)相手も知っているだろう」という感覚が他人より強いことを自覚している。
「○○だからこれくらい知っていて当然だ」と無意識で思い込んでいる事が多い。
また余裕がなく脳内妄想が暴走しているときは、脳内妄想内容が相手もわかっているという錯覚を起こして会話が噛み合わなかったりする。
機動戦士ガンダムのニュータイプ能力のような状態に勝手になってしまい、これを他者にも強要してしまう。
これが「空気が読めない」という状態だ。

他者と自己との境界が不明瞭というより、自己の境界が広すぎるために「現代社会ルールに囚われている普通の人」にはそれが越権行為だと取られてしまう。
発達障害者には明確な指示を出せというのも、これが原因だ。
5W1Hは断絶された自己の配分であり、中動態に生きる人間にとって理解し難い。

これはよくいわれる「発達障害者は共感力がない」のではなく、「共感力が強すぎる」からこそ起きる現象ではないだろうか?
狩猟採集生活で暮らしている時は、顔見知りのメンバーで、よく知った環境の中で、自らの役割だけを行っていればよかった。
そこには責任という曖昧なものはなく、同時に不要なコミュニケーションも必要ない。
皆が同質的な生活をしながら、完全に共有された役割を生き、明確な暗黙の了解の中だけで交流できた。

これが現代では発達障害者の症状とされている。
複雑で雑多な社会ルール下であるにも関わらず同質的な生活を求められ、複雑で雑多で不明瞭な役割を与えられ、不明瞭ながら当然とされる暗黙の了解=コミュニケーションに晒されている。
社会はシンプルだとされているが、全くそうではないからこそ空気を読まなければならない。
しかし、教育では社会は自由で完璧だと教え込まれているため、疑問が生じること自体異端とされている。
このダブルバインド、矛盾した世界が果たして人間本来の生活だといえるのだろうか?


文明のために捧げた生贄

人類の歴史とは、安全欲求のために人間らしさを次々と生贄として捧げてきたことをいうのかもしれない。
農業と定住は安全欲求を満たしてはくれず、しかもこれは止めることができない麻薬であったというのは「サピエンス全史」にも書かれていた通りだ。

現代の豊かな社会において、うつ病や自殺が横行しているという矛盾こそ、これが正しいことの証明になっているだろう。
もちろん、僕も現代の生活を捨てることはもうできない。
それくらい人間は去勢され、家畜化されたのだ。
文明化とは種を取るか個人を取るかの究極の選択だったのであろう。

故に発達障害者は悲観してはならない。
あなたに責任は全くもって存在しない。
現在の発達障害というレッテルは、時代が変われば内容もガラッと変わることだろう。
しかし、我々は生まれる時代を選ぶことはできない。
だからこそ、僕はここで現代社会に対する「傾向と対策」を、ライフハックを書いていこうと思う。
僕自身、かなり失敗を重ねてきたが、現在はとても落ち着いて生活することができている。
これも単に経験と知識による自己ライフハックの精製がうまくいったからに他ならない。
それではこれからも乞うご期待!


おすすめライフハック


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?