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世間の生み出した「宮崎駿」を宮﨑駿がパロディーにした映画『君たちはどう生きるか』

宮﨑駿監督『君たちはどう生きるか』を満を持して見てきた。
エンディングロールが流れる瞬間まで、「このまま終わってしまうのか?」という不安な気持ちを抱えていた。
見終わったときの感想は、自伝的映画であるということだ。
黒澤明監督晩年の映画「夢」「まあだだよ」のような走馬灯的イメージが脈絡なく繋がる自伝的回想夢であり、フェリーニの『8 1/2』のような自嘲的な総括のようでもあった。
そして「宮崎駿」を知るものほど意識させられる過去作品のオマージュや再現カットと、宮﨑駿本人の「歴史」に紐付けられた設定である。
正直なところ、これほどわかりやすい「最後の映画」を描くとは思わなかった。
鈴木敏夫プロデューサーが引退撤回し最後の長編映画を描くといった宮﨑駿に、「往年の名監督の晩年の作はつまらないものが多い」と言ってのけたようだが、まさしくそんな映画ではないか・・・と。
事実、このような原作無し、ストーリーが曖昧、アクション的な要素の少ない「芸術」映画は、近年の邦画ではまず作ることさえ許されない。
このような作家性の強い映画を作らせてもらえるのは、世界でも10人はいないであろう。
その中に自らが数えられるという自負があるからこそ宮﨑駿はこの映画を作り、しかし「こういった映画」にありがちな夢=自伝的映画を何故作ったのか?
あの従順ならざる過激で過剰な人「宮崎駿」はなぜ『宮﨑駿』として「君たちはどう生きるか」を描いたのか?

これは世間に認知され、世界的巨匠として歴史に刻まれ、自分が死んだあとも神のような存在になるであろう「宮崎駿」という人物を、「宮崎駿」にされた「宮﨑駿」が描くという壮大なパロディである・・・と僕が思った。
名もなきひとりの人間であった宮﨑駿は、いわゆる「夢」とされているアニメの世界の頂点に辿り着き、「宮崎駿」となった。
世界は夢でできている。夢は動機づけであり、所詮は自己満足、承認欲求、もっといえば最底辺の本能的な欲求に基づく。
宮﨑駿はそれをよく理解していたからこそ、そういった権威に贖い続けてきた。
母への愛着、戦争に加担する父への葛藤、愛する児童文学への思い、アニメとの出会い、高畑勲、そして・・・
宮﨑駿を貫くのは、あらゆる基礎づけられるものへの抵抗である。
どこか一点に自己が規定されそうものなら、烈火の如く怒るか、天邪鬼的な態度で曖昧な状態へと戻っていく。
所詮は自己満足でしかないと自認している天職であるアニメの世界の中で、しかし強烈に承認欲求を滾らせている。
このアンビバレントな状態こそ宮崎駿であり、それは紅の豚のポルコ・ロッソであり、もののけ姫の自然と人間社会の中間のまどろみでもある。
この取れそうで捉えようのない状態が宮﨑駿であり、そして日本的な自然感でもあった。

「千と千尋の神隠し」はまさに宮﨑駿の真骨頂であった。
ひとりの少女の成長という軸はあるものの、ストーリーから世界観に至るまでまるで一貫性がない。
あの曖昧な状態の中でも「社会的」に生きていると自認している湯屋の人々が、宮﨑駿の想う人間なのである。
宮﨑駿の作品に通底するのは、社会への呪詛であり、社会に対して全く無批判な人間の愚かさであり、しかしその姿勢であるからこそ社会が形成できているという人間の業から逃避し続けている自己批判である。
漫画版ナウシカのような社会の時間的場所的精神的重層構造、となりのトトロの人間が忘れてしまった子どもにしかわからない自然の道理、紅の豚の社会から逃避し続ける人々の「社会」、もののけ姫以降は言うまでもない。

「君たちはどう生きるか」はカオスと調和の両端が描かれている。
次元が通用しない絵本的世界観は現実社会のすべてが通用しない「社会」である。
その社会で現実社会の調和を規定している大叔父は、調和のために自らは悲壮な人生を送っている。
インコがあふれるあのカオスこそが本来の世界であるが、現代の人間はカオスの中では生きることができない。
カオスを細かく区分けし、名前をつけて規定していくことで、人間は世界を調和させていった。
大叔父を宮﨑駿本人のオマージュと捉える言説が多いが、僕は大叔父は人類の業であり、そして高畑勲の「夢」であると思う。
高畑勲の作品は徹底的にリアルである。アニメという虚構で現代人が忘れてしまったリアルを見せつける。
宮﨑駿と同じ現代社会嫌いである高畑勲ではあるが、そこへのアプローチは全く違う。
宮﨑駿はカオスを描き、高畑勲は調和を描くことで、社会に規定されている現代人の意識に働きかけようとしていた。
カオスを見せることで「わかるやつだけわかればよい」という宮﨑駿と違い、高畑勲は啓蒙に近い。宗教家や哲学者に近い立ち位置である。
宮﨑駿が子どもを描くのは、子どもは世界がカオスでしかないと「まだ」理解できる存在であるからだ。
高畑勲が徹底的にリアルな人間描写にこだわったのは、アニメという虚構の方こそリアルと錯覚させることで現代社会へ違和感を感じさせるためだ。
宮﨑駿からして、この高畑勲の存在は現実逃避している自己へのアンチテーゼである。
しかし、高畑勲の世界へのアプローチは、大叔父のような苦行でありそれは表現者として自殺に等しい。高畑勲は本当に作りたいものを生み出せたのだろうか?
そんな高畑勲への感情は、否定でも肯定でもなく、宮﨑駿が自己との対峙せざるを得ない存在であったはずだ。
高畑勲へのリスペクトは、愛憎入り交じる自己との対峙なのである。

故に「君たちはどう生きるか」は、そんな自分の人生に対するパロディーなのである。
世間が作り出した「宮崎駿」をリアルに描くことで、「宮崎駿」を認めるのである。
「宮崎駿」的要素を散文的に散りばめ、「宮崎駿的世界」を映画の舞台にする。
そこは宮崎駿が愛したと「される」すべて、児童文学や絵本や家族や自らの作品、何もかも詰め込んだビックリ箱。
「宮崎駿」を宮崎駿たらしめている記号をぶち込みまくることで、「宮崎駿」を宮崎駿たらしめている世間をパロディーにしているのである。
宮崎駿をより知っていると自認する人間こそ、このパロディーの呪縛から逃れることができない。
まさにその単なる記号の勝手なストーリー作りこそ、宮﨑駿が嫌悪する社会なのであり、高畑勲的調和への挑戦でもある。
世間の生み出した「宮崎駿」を宮﨑駿が磔にすることで、世界をカオスへと回帰させるのである。
まさに壮大なパロディ。
表現の世界の巨匠たちが最後に行うこの所業とは、世間が作り出した自己を殺すことなのだ。
「君たちはどう生きるか」というメッセージは、「宮崎駿」の最後の言葉なのである。

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