見出し画像

誰が発達障害者を生きづらい社会にしたのか?を探る『デカルトからベイトソンへ』①

なぜ我々は生きづらいのか?

空気が読めないから?馬鹿だから?電話が取れないから?

違う違う、そうじゃない。社会が勝手に規定した枠からはみ出しているからだ。でも俺たちは抵抗し続ける。なぜなら去勢された「社会人」なんて生き方はまっぴらだからだ。

しかし、我々は図らずもこのクソ社会に生きる羽目になっているのは紛れもない事実。ああ、赤いカプセルをよこせ。

「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」って中国のサイコパスが言っているが、俺たちは悔しいかなKYだからこそ傾向と対策を学ばなければいけない。

俺たちを痛めつけている社会を知らないといけない。知ることで戦略的にハックすることができる。

ではまず現在の社会って何?池上彰に聞くか?ファ○ク!

それはベイトソンに聞け!そしてモリス・バーマンに

ちなみにお気づきだろうが、BGMで90's Hiphop聴いてるから口調は気にしないでください。


近代以前の人間の認識

神々の沈黙」にあるように、俺達の脳味噌ってのは今でいう統合失調症がベターだったわけだ。まあ仮説だが。

しかし、中世までの西洋、いや近代化されるまでの人類ってのはみんなオカルトの世界で生きていたわけだ。

世界の境界はなく、事実と価値は同じ。便所にも神様はいるし、雷で臍がもぎ取られる。世界の全ては聖書やコーランに書いてあったり、自分の祖先は虎であると自負したり、地球は平面だったりしていたわけだ。

俺たちの先祖は馬鹿だったのか?

否、それが当たり前であり人間本来の世界の認識だったわけだ。ギリシャでは現象の背後には形相があり、その象徴は神だった。
中国でもアボリジニでもそうで、世界とはすでに完結しているものだったんだ。

だから、近代までの人間はすべてを知ろうとはしなかった。人間は宇宙の中心で、外は神により閉じている。神だけが真の存在で、他の存在は目的を与えられているだけ。

人間は虫や獣のように生殖と腐敗のサイクルにあり、存在は運命と共に当然として閉じられている。

現代の我々から見て不可解な中世のオカルト信念、魔女狩りや生贄などもすべてそのサイクルという調和から生まれた認識であり、すでに規定されたものだった。※それはそれで悲劇だが

世界と人間は一体化していた。「神々の沈黙」が人間が皆、統合失調症(精神分裂病)だというのは自己とその他という観念が存在しないからだ。

このあたりは現代人にとって理解しがたい感覚だろう。次はこの中世までの意識が近代で如何に変革したかをデカルトを軸に書いてみよう。


デカルトが規定した近代以降の人間の認識

近代になると科学が登場する。

科学は「なぜ動くかではなく、どのように動くか」へ思考をシフトした。

Why→Howへの認知革命だ。それまでの世界は「Why=神」で調和していた。ガリレオやニュートンは、精神知に外界データを利用(実験)して数学(純粋理性)で理解をすることで真理に到達できると考えた。

Howと実験により自然とは「働きかける対象」になり、人間と一体だったはずの目の前の世界は素材でしかなくなった。だから御神木でも平気で切れちゃうわけだ。魔女もトトロももういない。

Howの世界では、Whyの真理(如何にあるか)よりも有用性(如何に為すか)が重要となり、How的自然支配することでテクノロジーを哲学へ変換していく。

Whyの世界の住人であった中国人は、火薬や六分儀をすでに知っていたが、近代西洋人のようにそれを有用(帝国主義的意味で)に使うことはなかった。


結局の所、デカルトの「我思う故に我あり」とは、全てを疑うことで1からの視点を手にいれたということだ。

これはすなわち

・外界を懐疑することで弱い基盤を確かなものにする=数学

・自己→外世界を機械的に証明=知られた

デカルトは、数学的証明を機械的に繰り返し、寄せ集めることで、全体を知ることができるという「最小からのスタート=原子論」を創設することで西洋の意識を方向づけたのだ。

この機械論的哲学により、矛盾は存在しないことになる。

これにより人間自体も機械のように認識され、脳と体、内と外は分けられた。二元論の誕生だ。※主体と客体

この西洋近代哲学の土台にニュートンたちが加わることで、アリストテレスの「目的・目標を持つ宇宙」が「意識なく動き回る物体の寄せ集め」に転落した。

意識とは世界の説明方法になり、知ることは物体を分解することであり、定量化できたものが存在となる。


中世と近代の認識の違いとは?

近代の価値観は、この哲学を土台とすることが体系化されちまったわけで。

中世の世界観
・世界は閉じて完結している
・人間は宇宙の中心
・神=真の存在
・生成と腐敗の円環=変化のない世界、事実=価値

17世紀の世界観
・リアル=運動のみ
・人間は自然を操作する能力がある
・事実≠価値・・・何をすべきかは科学は教えてくれない
・自分で自分の目的を見つけなければならない

世界を数学的に抽象化し、目的論を否定することで、「たしかなもの・意味あるもの」は失われてしまった。

ちなみにこれは後年、資本主義が生まれる下地になったのは言うまでもない。


この世界の認識方法の転換をポランニーの「暗黙知の観点から見てみようじゃねえの。

ポランニーは、あらゆる体系とはそれが正しいのではなく、「安定しているだけ」と言った。一貫性があるだけで正しく、それが信念となっているに過ぎないと。

我々を規定している社会のシステムもこれと同じだ。
近代のシステムや価値観は、この「安定しているから」という理由だけで絶対的価値観=信念にされている。

ポランニーはこの信念の形成に至る認知プロセスを掘り下げることで、暗黙知が土台形成に影響していると指摘する。

暗黙知とは無意識のレベルで既に知っていることであり、学習すること=暗黙知を無意識のレベルで発見することなのだ。

例えば自転車に乗れた時、我々は脳内でそれを言語化しているか?否、気づいたら乗れたわけだ。

医学生がX線の写真を見続けることで、ただのシミが癌の病巣に見えるように。経験の中に埋没することで、自己を忘れ、参加することでカテゴリ化される。この認知プロセスは、誰でも覚えがあるのではないだろうか?

このように、「近代以降の定量化・抽象化=知る、意識できる」という思考方法だけではない次元が存在する。
ここには自己を外界に参加させる行程が存在する。科学的な二元論で否定された「参加」する意識だ。


感覚→イメージ→概念化

我々は社会が決めつけた信念=価値観を土台に、イメージ→概念化して学習している。

これをアルファ思考といって、あらゆる情報を社会を土台に自動化して認識しているわけ。アルファ思考がネットワーク化されると安定され、それが文化となるんだよね。なんせ感覚をその都度概念化するには、今の情報化社会では無理になっちまってるからだ。

いわゆる未開文化というのは、前段階の「感覚←(形づけ)→イメージ」という双方向の認知プロセスが主体となっている。
無意識と意識は曖昧で、抽象化よりも経験が重要な世界観だ。
だから、中世までは霊=現実だったわけだ。自己と自然は一体であるから、怯えや不安が生じる。

わかりやすく例えると、「もののけ姫」のシシ神の森の住人とエボシやジコ坊の関係に近い。
サンたちシシ神の森の住人は、シシ神という気まぐれな神を自己と同一化し、その森で起こる現象はすべて現実と思っている。
そのシシ神の森をエボシはたたら製鉄の材料としてしか見ていないし、ジコ坊は非科学的な理由でやんごとなき人々のために求められているシシ神の首を狙っている。
サンたちが必死で守ってくれているのに、全く無愛想で無慈悲(平気でモロもkロス)なシシ神を見て、我々現代人は命を懸ける意味を見いだせない。
だが、サンたちはシシ神という真の存在を中心とした森の世界で生きているのだ。
ジコ坊はリアリストだからこそ、オカルトなシシ神の首の効用を信じていないにもかかわらず、「有用性」のために損得勘定で「神殺し」を行うのだ。ジコ坊の世界では、高貴な人間への上納や不老不死が是とされている「信念」が価値観を生んでいるのだから。
余談だが、アシタカとはその両者の認知プロセスの中途半端な理解者として、トリックスターのような立ち振舞に終止している。


なぜ発達障害者は社会に合わないのか?

このように、中世と近代で人間の認識はガラッと変わってしまった。
お気づきだろうが、現代の俺たちが生きづらい社会というのはデカルトから始まった近代の機械論的哲学が元になってできている。

そうなるとだ、発達障害の症状というが中世までの認識方法では当たり前だというのが見えてこないだろうか?

そうなのだ。

空気が読めない、人間関係がうまくいかない、落ち着けないなどはすべて「人間本来の認識方法」が原因ではなかろうか?
というか、近代社会システムが非人間的な体系で運営されているからじゃないのか?

俺の簡単な考察だが、発達障害者とは『勝手に決められた社会の体系に適合した自動化ができない』から社会に合わないのだと思うのだ。
一元論的世界に生きていると言っても良い。

機械論的哲学の社会では「意識=完全自動化された概念が価値観」であるから、中世的思考である意識と無意識が曖昧な状態であるとここが納得できない。
自己と外が完全に切り離されているのが、現代社会の絶対基準なのだ。

いわゆる普通の人間は、文化や社会が何の根拠もなくただ安定しているというだけで『暗黙の了解』された体系に適合するような教育制度の中で、無意識レベルで社会適合ができる人たちをいう。

認知プロセスのアルファ思考の自動化が得意、もしくはその体系に洗脳されているのだ。

俺たちは逆で、自動化されたアルファ思考に納得がいかない、違和感を生じるのだ。
二元論的でありながら、暗黙知を利用している時点で一元論的な感覚が残っている体系への納得のいかなさが違和感となり、暗黙の了解に混乱し、空気が読めず、社会不適合者の烙印を押されている。

アルファ思考で自動化された概念に順応した人間たちは、無意識にこの信念の体系という価値観を感覚的な反射レベルにまで落とし込んでいる。

俺たちはこの認識体系の構造が理解できないのだ。
ここが難しいのは、現代社会ではこの構造が教育では掬いきれないレベル、もはや無意識レベルにまで落とし込まれている。
だから親や教師のいう当たり前は、当の親や教師が言語化できないのだ。
なんせ無意識レベルにまで洗脳されているから。

その不理解を矯正するのが学校であり、学校で生み出された暗黙の了解をインプットした企業戦士は晴れて社会に弾き飛ばされる。

だがどうだろうか?
日本社会は偽装二元論じゃないか?
西洋的なガチガチの二元論・機械論的哲学を土台にしながら、そのさらに下には古き良き中世の一元論的アニミズム世界がしっかりと根を張っている。
機械論的哲学を元にした社会であれば、数学的な証明という評価基準が必要だ。
しかし日本社会は未だに土俗的なムラ社会制度が大手を振って生きている。
政治や経済の問題でもそうだが、何もかもが曖昧で証明ができていない。

それは社会のルールや労働やエネルギー問題も全てそうで、だからだれも責任を取らない、というよりも取れない。
なぜなら、文化的に安定した概念=アルファ思考を育てずに、いきなり概念だけを西洋から借りてきたからだ。
僕はムラ社会制度でも良いと思う。西洋由来の近代社会の価値観は肌に合わない。
だが、現在の日本社会は中途半端なのだ。アシタカなのだ。二元論社会というタテマエの中を、一元論社会の呪いを腕に抱えたまま生きている。

話が逸れたが、日本というホンネとタテマエと機械論的哲学の社会は、発達障害者にとってとてつもなく生きにくいのだ。
ただでさえ暗黙の了解が納得いかない中世的思考を持つのに、アニミズム的で啓蒙思想的で資本主義経済のキメラの中を生きなくてはならない。


次回はさらに現代の社会の深部を探っていこうと思う。
そしてこの社会で生きるためには?について


この記事が参加している募集

#読書感想文

189,141件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?