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「マンチェスター・バイ・ザ・シー」感想 愛を求める二人

ネタバレ注意

まずは簡単なあらすじから。
過去の深い罪に苦しむ主人公リー
一見リア充ながらアイデンティティの不在に苦悩する甥のパトリック
そんな二人が共に過ごす時間を描いた映画。

リーはある事件を起こしたことから、それまでのすべてを捨て見知らぬ土地で本質的な意味での自虐的な生活を送っていた。
故郷を捨て、ボストンの住宅街で便利屋として働きながら、酒と喧嘩に溺れ無機質な部屋でただ生きながらえていた。

そんな時、兄のジョーが死んだとの訃報。
そして兄の遺言で、甥のパトリックの身元引受人となることになる。
リーは拒絶する。これは単に面倒であると言うだけではない。彼の罪を知ればその理由がわかるのだが。
パトリックはリア充な高校生。複数の彼女や友人たちと田舎町で楽しく暮らしていた。
しかしパトリックは、どこかつまらなそうなのだ。

パトリックは父の大事にしていた船に固執する。
しかし多額の維持費や修理代金を考え、手放すよう諭すリーといがみ合う。
その後、リーは久々に訪れた故郷で過去の罪の意識が再燃してしまうことが他手続きに起きてしまい、結局パトリックを知人に預けるよう決断する。
リーの苦しみを知ったパトリックは、その決断に理解を示す。
最後にリーはパトリックに素直に弱さを見せつけ、パトリックは本当の自分に向き合うことを教えられる。


この物語は、リーとパトリックの異なるベクトルへ進む意識の時間的な感覚が見事に交差している。
リーは生きながら死んでいる。過去の悲劇から、ほぼ自殺した状態ともいえる生活を送っていた。
たしかに自殺でもしなければ、後悔を振り切ることはできないであろう。
法律上では罪ではない、重大な過失であり故意ですらない。
だが、罪か問われれば、人間の根源的な罪とされるだろう。
法律上の罪として罰することができない代わりに、それを悔い改めたり癒やすことは社会的にできないという複雑な状況に追い込まれていた。

そんなリーを支えたのは兄のジョーであった。
そしてジョーは、パトリックをリーに託す。
両親が離婚し、母のいないパトリックは、リア充的な学生生活を謳歌しているが、どこか影のある表情である。
パトリックは両親の離婚からくる愛の不在のためか、自己のアイデンティティ的なものが不明瞭となり、どこか流されて生きているのだ。
やんちゃといわれる程度の高校生にありがちな、ある規定された「リア充像」に流されている感覚だろう。
親の愛情がなく、それを受容することも反発することもせず、とにかく中途半端な高校生くらいの年齢の若者にはありがちな状況だ。

若者の強い承認欲求を満たすには、2つの大きな承認カテゴリーがある。
社会が要請する学業やスポーツという社会的な承認と、スクールカーストや消費経済的流行を含む小さな世界の人間関係での承認だ。
社会的な承認は、親ガチャやセンスや努力を要するため体感的なコスパが悪く参加コストも非常に高い。
学校という小さな世界での人間関係であれば、ある程度の流行という型に嵌りつつ、性的欲求が中心のスクールカーストの中でうまく立ち回る事ができれば良い。
後者はある程度の容姿や対人コミュニケーションスキルがあれば、少なくともその世界では承認してもらえるのだ。
だがそれは、常に他者の評価が絶対的であり、非主体的な関係性だけの価値観しかない。
パトリックは後者を選び、だがその中で適応する自分に違和感を感じている。

パトリックの感覚は、「非主人公感」だろう。
自分の人生であるにも関わらず、どこか流されていくような感覚。
そして小さな世界のモブキャラクターとしてしか存在していないような感覚。
この非主人公感は、「桐島、部活やめるってよ」が完璧に描いている。

母の愛を失ったパトリックは、その非主人公感の解消をガールフレンドに求めたが、彼女たちは所詮スクールカースト内のポジション取りとしてパトリックを必要としていただけであった。
パトリックは、スクールカースト内でうまく立ち振る舞うことで、逆に非主人公感に苦しむのであった。

リーはそんなパトリックを見て何も感じていない。
夜に彼女を呼び込もうが、アッシー君にされようがまるで興味がない。
リーは、小さな世界にうまく適応しているパトリックを見ても価値を見いだせない。
羨むことも怒ることもなく、ただ必要とされるから手を貸す程度だ。
そんなリーを見てパトリックは、「大人だからもっと他人とうまく話せ」と型に嵌めようとする。
本来は逆だろう。
パトリックはリーの悲しみを知ってはいたが、苦しみまではわかっていなかった。

兄の葬儀とパトリックの養育手続きのために故郷にいる間、リーは忘れようとしていた罪に引き寄せられる時間のベクトルを進む。
パトリックは父の死のおかげで母と再会するが、母とともに暮らすことができないことを悟る。パトリックは父との別れと母との和解ができないことを同時に悟る。
パトリックは両親との別れを経験し、リーの苦しみを初めて理解する。
無償の愛だけを追い求めていたパトリックには、他者のことを本当に理解しようとする意識すらなかったことに気づく。
そしてそんなパトリックを見て、リーは苦悩から開放されない惨めな自分をさらけ出すのであった。


パトリックの苦悩は、現代人ならほとんど共感できるものだろう。
現代社会とは、足場のない自己愛を増長させられ続けるようできている。
若者はその中で苦悩し、やんちゃか黒歴史を紡ぐことになるのだが、いつしか社会から自己に与えられた役割を悟り、いわゆる社会人として人間性を捨てる日が来る。
リーの苦悩は社会の誕生以前から罪とされているものであり、そのような罪であるにも関わらず現代の社会では罰せられないというジョークのような矛盾は新たな苦しみを生んだ。
リーという時間の止まった男が、社会から規定された「大人」になろうとして苦悩しているパトリックの姿勢を変えるところがこの映画の素晴らしさだ。
リーは何一つ教えることも諭すこともせず、ひたすら暗く、ウジウジし、そして常に死の影を覗かせている。
その姿こそ、パトリックが欲していた無償の愛であったのだ。
「大人がさらけ出す弱さ」は、パトリックが求めていた無償の愛そのものであったのだから。


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