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映画『オッペンハイマー』レビュー〜責任という名の虚構に踊らされるプロメテウス

映画「オッペンハイマー」を見た。
クリストファー・ノーランの映画は必ず映画館で見ることにしている。
時の魔術師クリストファー・ノーランは、「インセプション」では断層的な夢の世界の時の魔術を、「ダンケルク」では空間と速度における時の魔術師を、「テネット」では時間さえ逆行させてしまう大魔道士となった。IMAXフィルムを使ってね。ホイテマ。
「オッペンハイマー」は時の魔術師としての新たな秘術を・・・と思いきや、「メメント」のような回想と回想をカラーとモノクロで行ったり来たり・・・あれ?カモメが逆に飛んだりしないぞ?

今回の時の魔術は、人類が生み出した最高傑作「責任」という虚構である。
デヴィッド・グレーバーの負債論よろしく、責任という時間的拘束力を利用した管理システムにより官僚制を、そして権力を、そして構造的な統治機構をして我々は文明に使役してきた。
人間が豊かさと秩序を重んじるのは、この使役の果てにあるのが「それ」だからであり、それを良しとするしか我々の自我は保てないのだ。
いつからか私達はこの虚構でしかないぶつ切りのパッキングされた時間という責任に縛り付けられている。昨日借りた金は明日返さなければならず、昨日殺した相手への罰は明日の裁判で時間的に処理される。
ロバート・オッペンハイマーは時代的な要請で単に選ばれた科学者であり、それはケネス・ブラナー演じる「テネット」の悪役セイターと同じ、その時その場所(ポジション)にいたからでしかない。
脱線するが、愛息の学校ではグローブをくれた大谷翔平を神のごとき崇めているという。大谷翔平はただ球を投げるのと球を打つのがうまいだけの人間であり、野球というエンターテイメントにおける経済的影響力という時代的な要請で一部から崇め奉られているだけのただの人間である。大谷翔平の評価は200年前ならどうだったのであろうか?もし1年後に野球賭博で逮捕でもされてしまったら?

そう、映画「オッペンハイマー」は、ただの人間である一存在に襲いかかる責任という名の時の魔術なのである。
ロバート・オッペンハイマーはマンハッタン計画を成功に導き、広島と長崎を焦土と化し、数十万の人間を焼き病み殺し、そしてアメリカでは英雄として崇め奉られていた。
責任とは多面的である。アメリカでは戦争を早期終結に導いた英雄、広島で親を殺された子どもにしてみれば親の仇の首魁である。
戦後、権力闘争と核兵器に対する「時代性」的反応に巻き込まれ、オッペンハイマーを英雄にし悪魔にもした責任は時代により急変する。
政治的(これも時代性)な諸処の問題により、英雄から凋落するオッペンハイマー。
では彼に罪はあるのか?原爆を完成させた瞬間、彼は「正義」であったはずだ。当の広島・長崎に住む一般の日本人はオッペンハイマーを知るはずもなく戦時下の日常を送っていた。
では生まれたばかりのアドルフ・ヒトラーを取り上げた人物は、彼を殺さなかったことで咎められるのであろうか?
オッペンハイマーは物理学を学んだ時点で「責任」を育んでいたのではないか?
では巨人の肩の上に立つニュートンは?
開戦を決めた大日本帝國の首脳陣は?エノラ・ゲイを整備したエンジニアは?事後の「責任」の「時間」から急に現れたあの特別弁護人ロージャー・ロッブは?
大統領は?スターリンは?それともワシントン?コロンブス?
責任とはその時その場所にいた人間のことを指す。その時という時間的空間は時代が選別する。それは時代が数多ある要因から適当に選び出すのである。選ばれた人間は英雄であり、罪人であり、歴史に名を残し、子々孫々まで侮蔑され、神の如く崇められ、道半ばで朽ち果てる。

オッペンハイマーは特別な人間なのであろうか?
ただの人である。
オッペンハイマーは、しかし責任の何たるかをアインシュタインから学んだのだ。
オッペンハイマーは殉教者であり、原爆の責任の最終処理者を演じ、そしてただ生物学的に死んだのである。
クリストファー・ノーランの時の魔術師としての「責任」の描き方はまさに圧巻である。
ロバート・ダウニーJr演じるルイス・ストロースという「責任」の時間制を道具としか見ていない現代的成功者という盲目人を対比させることで、プロメテウスという罰を受けるオッペンハイマーを映し出す。
ストロースはオッペンハイマーと同じ人間であり、オッペンハイマーになったかもしれない人間であり、オッペンハイマーの責任に含有される情報でしか無い。
オッペンハイマーの責任を構成する時代的時間的空間というパッケージに入っていたかもしれないストロースは、しかし最後まで責任の「時間」の本質を見ることができなかった。
そもそもストロースは勝っても負けてもなく、それは俯瞰してみれば責任の時間制に包含される「責任」の重み増し程度でしかないのである。
マイケル・サンデルの突き詰めればすべて「運」という絶望的な結論は、奇しくもオッペンハイマーたちが苦闘した量子物理学の混沌にして明快であろう世界観とも通じる、そして責任とはまさにそんな時間制により世界を世界足らしめているだけに過ぎないという現実的時間の根拠なのである。
こんなとりとめもない根拠に、我々は束縛され、それを当然として生きている。
根拠とも言えない。新幹線で見る車窓の数秒間を切り抜かれ、これが世界の全てであると言われているような感覚、それが世界なのだ。
オッペンハイマーにむしゃぶりつく責任、その中に可能性として留まることなく巣食う時間、しかしそれはあなたも参加させられている茶番なのである。
オッペンハイマーが意固地に参加した出来レースでしかない聴聞会、それは茶番であり、そしてオッペンハイマーが達観したかもしれないもっと壮大な「茶番」への道義的責任感の現れだったのかもしれない。
やはりオッペンハイマーは悔いていたのだ。
しかし、悔いの対象は彼以外にわからないであろう。
ただ言えることは、オッペンハイマーの茶番の顛末に残されたのは原子爆弾であるという事実である。


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