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春と名前のこと

 沈丁花の匂いがむかしからとても好きで毎年この時期はひっそりたのしみにしているのだけど今年はその匂いを空中に感じる前に春の温度がきょう来た。と思って、良い感じの温度だったので仕事のあと最寄駅を越えてターミナル駅のショッピングモールに寄ってみたらアオヤマフラワーマケットの軒先にてのひらサイズの沈丁花ポットが売られていた。
 針金にようやく支えられて伸びているひと枝だけが植えられているほんとうに小さなポットで、ちょっとほしいなと考えたものの自分がいつも好きでいる沈丁花はどこかよその庭で生垣になっているもさもさっとした巨大な植物のイメージだったし、なにより針金に支えられている見た目が痛々しいような気もして買うのはやめた。お金もあまりないし、それに軒先でスマホをいじって調べてみたらわたしの部屋の環境では満足に育ててあげることもできなさそうだった。
 針金に支えられてなんとか生きているすがたはちょっと親近感もわいた、とはいえ、好きな花であるだけに部屋にあったらいずれ同族嫌悪で死んでしまいそうだ。
 沈丁花の醍醐味は、よその、誰かの所有している空中に漂っているその匂いを、ひっそり盗み嗅ぐことであるのだし。

 沈丁花の匂いを感じ取れるひとと感じ取れないひとがいるのだとここ数年で知った。わたしが親しくしている数人も「沈丁花の匂い」と言ってもそれが何であるかわからないという。あんなにも濃く馥るのにそうなのか、とこちらはどうしたって驚いてしまう。一緒に歩いていて沈丁花の匂いに出くわした初春の夕べ、あ、これが沈丁花だよ。とわたしが教えても、その場では「あ、これが」と相手は納得するものの、翌年にはもう忘れているようにみえる。でも無理はないのかなとも思う。所詮は匂いであるのだし。
 おいしいラーメン屋のにおいがわたしには嗅ぎ分けられないのと一緒なのか? いやでもそれとはちょっと違うかも。
 でも所詮匂い、っていう、その「所詮」のうら寂しさが、沈丁花の持ち込む春なのだなと感じたりもしたりして。

 沈丁花は漢字も好きと思う。あの鋭く甘い匂いを嗅ぎながら「丁」のカギ型の部分をひとさし指となか指でクイッと持ち上げて、そのひんやりした感触をたのしんでみたいものだといつも思う。
 花のかたちをなかなか憶い出せないところもよい。というか、花のかたちや色とあの匂いにイメージの差がありすぎるような気もする。
 とかく匂いのつよい植物というものはひとのなかのイメージや記憶をごちゃまぜに崩してしまいがちな性質をもつために、存在はいつだってデジャヴなのかもしれない。

 何の思いつきをここに書こうと思ったのだったけ。と、書きながら今わたしはほんとうに憶い出そうとしている。
 だった、と書いて憶い出した。そう、桜と誕生日と名前の話。

 わたしは三月末日のうまれで、関西では毎年ちょうど桜が満開になる日であることが多い。
 テレビの天気予報の中継映像のなかでも、じっさいの桜の下でも、落語のなかでも写真のなかでもだいたいのひとが頰をほわほわ染めて笑っている日。いい季節にうまれたね、と言われがちに生きてきて、たしかにそうだねとは思う。日本じゅう数え上げたら、桜が咲いているというだけで、たぶん悲しみより微笑みの数のほうが多い日だと思う。桜が咲いているというだけで心がとてもゆれ動くのでひとは。
 だからといってわたしはとく桜に思い入れはなくて、運のいいことに桜が咲く季節にこれまで良いできごとも悪いできごともなかった。
 むかしから金木犀の季節になれば毎年いろいろやばい分だけ、桜の季節はいつもわりかし調子がいい。メンタルをくずして、ダーリンまた四月が 来たよ同じ日のことを思い出して don't U θink? i 罠 B wiθ U 此処に居てずっと ずっと ずっと明日のことは判らないだからぎゅっとしていてね、という気持ちになることもなかったし、ぬるい面影に潮風がひゅるり浸みて錆びゆく名残り桜の下で彷徨い、「死んでやろうか一緒に」などと誰かに言う状況に陥ったこともない。そういえば桜に関する歌は暗いものもかなり多い。

 桜はわたしのなかで平坦なイメージの花で、思い入れも思い出もなくて、だからこそ、自分の誕生日に満開になるのだという事実がずっとずっとふしぎなのだった。

 で、誕生日といって毎年憶い出すのは、その桜が満開になる日だというのと、それから自分の名前について。

 ものを書いていると本名ですかとよく訊かれる。
 本名です。と、いつもすぐに答える。「なんでペンネームとかDJネーム付けなかったんですか」ともいつも訊かれるので、「なんか、自分がそれに気がつく前にみんなが磯貝さんとか依里ちゃんって呼んでいたので」と、これまたいつもそう答える。
 実際ほんとうにそうで、べつの名前をつけたかったかと訊かれればちょっと付けたかったのに、ふつうにチャンスを逃してしまったのだ。

 でも、よくよく考えてみればそもそも名前というのは、自分が理解するよりも先に周りのひとがわたしをそう呼んでいるものであるのだから、べつにそれで当たり前なのかなとも思う。
 赤ちゃんがうまれたら、その赤ちゃんに誰かが名前を付ける。名前を付けられた赤ちゃん本人は一年か二年か経たないと、自分の名前を言葉として理解するところまでたどりつけない。親だのきょうだいだの親戚だの町のひとだの、そういう「先のひと」が、本人よりも「先に」名前を理解している。
 よくよく考えてみればなんだかちょっと、ふしぎな話。

 だから自分的に今の状況は、もともと磯貝依里と付けられていたし、みんなが磯貝依里と呼ぶもんだからいつのまにかほんとうに磯貝依里になってしまったという感じなのだった。

 上に兄がひとりいて、下に弟がひとりいる。三人きょうだいの真ん中である。兄がうまれた時に両親はけっこう残念がったらしくて(兄かわいそう)、それというのもありがちな理由・女の子がほしかったから。

 二年後に待望の女の子がうまれ、両親はその赤ん坊の名づけに際してかなり相当、とても随分熱心になったそうで、いや「そうで」というよりわたしは実際にその証拠を何度か確認したことがあり、いちばん最初の確認は、小学生の時に課題で出された「わたしのうまれたひ」というタイトルの両親へインタビュー系のやつ(全国共通の課題な気がする)に、うまれた時のエピソードとして名前の由来を紙面の半分以上使って説明しているもので、それから中学生の頃に親が得意げに見せてくれたのは、わたしの名前を考える時に使用した名づけノートの原本だった。

 名づけノートはほぼ全ページ書き尽くされ、当時の流行りからしぶめのものまで、何百もの名前が小学生の漢字練習帳のごとく黒々とうねって光っていた。
 有力だった候補はこれとこれで、と父母が指差したなかに「雅」「麻子」「まや」「りん」「麗羅」などがあったのを憶えており、「あさこはよかったんだけど、ママの嫌いなひとの名前だったからダメになったんだよねえ」と父がのんびり教えてくれたのもよく憶えている。
 けれどそのほかの何百もの名前候補をほとんど憶えていないのは、名づけノートの約半分が「えり」のあらゆる漢字パターンで埋め尽くされていた異様な光景のせいだ。

 名前の話題になる度によく話してきたので周囲のひとはよく知っているのだけれど、わたしの親はふたりとも呆れるほどのサザンオールスターズファンで、兄はサザンメンバーの名前、わたしの名前もサザン由来の『いとしのエリー』からとったものだ。おとうとだけ仲間はずれである。

 「えり」ではなく、両親はもちろん「えりい」にする予定だった。ほんとうは「えりい」にしたかったのだと、物心つく頃からいま現在まで耳がどろどろに溶けそうなほどくりかえしくりかえし聞かされてきているから、両親の名づけに対する執念はげろが出そうなほどに凄まじい。

 名づけノートにはあらゆるパターンの「えりい」が鉛筆で綴られ試行されていた。

 「愛里依」「絵里依」「依里衣」「恵吏依」「瑛莉依」「依梨生」

 こういう字面のものが百、二百も並んでいる光景にぞっとしないはずがない。今でいう陽キャだった両親が、昭和と平成のあいだの当時にしてはやたらキラキラ志向だったというのもうかがえる。

 磯貝愛里依はやばすぎる。誰が見ても地味不細工なこの和顔で。
 「えり」の出来上がる過程を知ったわたしは小学生ながらガタガタふるえたし、両親には悪いけれど「えりい(漢字)」と付けられなくてほんとうによかったし、そこまで候補を列挙したにもかかわらず結局なぜ「えりい」にしなかったのかといえば、両親はどうしても「依」の字を頭にもってきたかったそうで、そうすると「い」の字でうまくおさまるものがなくなってしまうため、ある種妥協して「依里」に落ち着き、それでもまあ由来は『いとしのエリー』だし。という感じだったらしい。

 子どもの名づけにまで執念を燃やした両親の圧が圧すぎて、わたしは大人になるまでサザンオールスターズがどうしても苦手で苦手で仕方がなかった。
 だいたい『いとしのエリー』はよくよく聞けば子どもでもわかる、甘ったるくねじくれた恋のうたじゃないか、というのも『いとしのエリー』が好きじゃない理由だった。栞じゃだめだったのかと何度も思った(いや栞もだめだなと思った)。
 わたしは名づけられた時からずっと、これからもずっと「エリー マイラブ ソースウィート」の呪いをかけられているのだ。こわい。
 ちなみに、三十歳を越えてメンタルの脂が抜けてきた今となっては、サザンや桑田佳祐をぶじ好きになることができた。(ただ、『いとしのエリー』だけは相変わらず苦手な曲で、店やテレビでふいに流れたり目の前で歌われたりする度に猛烈な羞恥心に襲われ逃げ出したくなるのは、いつまで経っても変わらない)
 「いとしのエリー」を親が流そうとする度に「きらいだからやめて」とわたしが子どもっぽく言い続けてきたので、親はあの曲を好きなぶんだけ、たぶんかなしかったと思う(こんな出逢い方じゃなかったら、きっとわたしも好きな曲になっていた)。

 意味が詰まりすぎているのは苦手だ。桜の季節にうまれたから名前は桜、くらいの気軽さがよかった。

 子どもの名前。自分が好きだからといって、無邪気にオンマイマインで名づけるものではない。いつまでも親の素敵にインヨアサイではないのだ。
 仕方がないのでもう親を責めたりはしないけれど。

 ところで話は戻って、「依」の字をどうしても頭に付けたかったという話の詳細だけはこれまで聞いたことがなかった。

 なんだかそれがとても重要であるような気がするのに、どうしてだか聞いたことがない。今では人気の漢字だけれど、わたしのうまれた当時はあまり使われていなかったからかもしれないし、単に字面が好みだったのが理由かもしれない。
 えりの漢字は、とひとに説明する際に不便なので、小さい頃は「えり」の名前と同様に「依」の字もまったく好きではなかった。漢字を検索してもあまり良い意味や熟語がでてこない。「絵本の絵」「めぐみの恵」などであればよかったと何度も思った。「ニンベンにコロモです」と説明するのがひどく間抜けな気がして、中学に上がる頃から「依存症のイに、里子のサトで「えり」です」と言うのが常となった。

 依の字はただそれだけではあまり成り立たない気がする。よりかかる、頼る、従属する、以前と変わらない様子。字自体の意味そのものみたいにほかの漢字によりかかり、それで自分もなんとか意味を得ているような。ずるそうな、暗そうな。
 苗字の磯貝と合わせると「依怙贔屓」という言葉を思い出させて、それもなんだか嫌だった。

 そんななか、自分の名前を初めて好きだと感じたのは、大学三回生の冬。
 ゼミの担当教員のY先生が多和田葉子さんと詩のイベントをするというので、ひとりはるばる京都の銀閣寺のほうの小さなお寺に行った。イベントは二夜連続もので、お寺の会場は二日目で、参加者が筆で記した文字を多和田さんが即興で組み合わせて詩をつくって朗読し、読んだ言葉の半紙をその場ではらはらと畳に落としていく。そのイベントの打ち上げに一人前に寄せてもらい、四人席の小さなテーブルで多和田さんと真向かいに座った。

 どの茶器も綺麗で繊細な、白いこじんまりとした中華料理店だった。目の前に座る小柄な多和田さん(綺麗なおかっぱ髪)までもが中国茶器みたいだとこっそり思っていた。蜜柑色の熱いエビチリがすごくおいしかった。
 おなまえは、と訊かれたので、ついいつもの癖でわたしは、「依存症のイに、里子のサトで「えり」です」と言ってしまった。

 あ、しまった、目の前のこのひとは多和田葉子だった。と、気づいた時には遅かった。自分の陰気な自己顕示欲を披露したような、ひどくみじめで羞ずかしい気持ちでいっぱいになり、もう逃げ出すしかない……、ぜんぶ「えりい」が悪い……とうなだれて、
 しかしその時多和田さんはぽっと微笑み、こう言ってくれたのだった。

「良い説明ですね。依存症の里子って、その言葉だけで小説みたいです。依存症の里子でわたしはもう忘れないから、もし小説の新人賞の応募者に依存症の里子があらわれたら、その時は必ず見つけますね」

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 依の字ひとりでは良さげな意味がないのと、里の字もなんだか呆けているような感触がして、自分の名前がどうにも好きではなかったのが、ここ数年で少しずつ変わってきた。
 依と里をくみあわせることで「誰かの心のよりどころとなれますように」という想いを両親はひそかに込めていたのかもしれない。と勝手に都合よく読み解いたりもして、自分はメンタル弱そうな依存症の里子であるのに「誰かの心のよりどころになりたい」と思うだなんて、なんだか健気でいいんじゃないのかという気もしたり、果たしてわたしは死ぬまでに誰かの心のよりどころになれるだろうかとぼんやり考えたりする。そもそも近頃は自分の名前に執着がなくなってきた。それでも春の、桜の咲く頃になれば毎年自分の誕生日がきて、誕生日が来れば、うまれた自分につけられた名前のことを憶い出す。

 そうか、自分にも桜に思い入れがあったのかも。と、きょうアオヤマフラワーマーケットの沈丁花を見てなぜなのか急に閃いたのをそういえばここに書き残したかったのだと、ここまで書いて、わたしはやっと、思い出す。

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