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#小説

「言葉を演じるひとたちの」/『文芸翻訳入門』刊行記念トークイベントに行ったり、そうしたらいろんなことを思い出したり。

「言葉を演じるひとたちの」/『文芸翻訳入門』刊行記念トークイベントに行ったり、そうしたらいろんなことを思い出したり。

 たとえばほどいた先に見えるのは、遠い記憶のなかの光景。

 今は亡き祖母の家の、その涼しい畳敷きの部屋で。あるいは気ままな独身生活を謳歌する叔母たちが旅や仕事に行ったあとの、ひっそりと静まり返った彼女たちのベッドの上で。タオルケットにくるまった子どものわたしが夢中になって読書しているその脇に積まれていたのは、思えばそのほとんどが海外生まれの物語たちなのだった。

 わたしには叔母が五人いて、彼女

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「勇敢な女子高生と、自由な自殺」②/最果タヒ『十代に共感する奴はみんな嘘つき』試論(文學界2016年4月号掲載)

「勇敢な女子高生と、自由な自殺」②/最果タヒ『十代に共感する奴はみんな嘘つき』試論(文學界2016年4月号掲載)

 ところでわたしはもう十代ではないし、女子高生でもない。それどころかもうあとすこしで三十歳だ。女子高生だった頃の記憶はちょっと探したくらいじゃ見つからない。まるで、最初から女子高生の経験なんてなかったみたいに思い出せない。きちんと思い出せるのは、今のわたしにとって高校時代よりもひとつ手前の大学生時代のことばかりだ。だからわたしはこの小説のなかで、カズハよりも、お兄ちゃんや三井、ビッチという、三人の

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「勇敢な女子高生と、自由な自殺」①/最果タヒ『十代に共感する奴はみんな嘘つき』試論(文學界2016年4月号掲載)

「勇敢な女子高生と、自由な自殺」①/最果タヒ『十代に共感する奴はみんな嘘つき』試論(文學界2016年4月号掲載)

 最果タヒの放つ言葉を、わたしは一文字たりとも捨てられない。読み逃せない。それはまるで、〈言葉〉に縛られて、がんじがらめになって、この世界に存在しているすべての〈言葉〉を掬いあげなければならないと必死に信じていた、十代の時みたいだと思う。

 わたしが十代だったのはもう17年も前の話で、思い出してみればその頃のインターネットというのは今とは少し違う場所だった。2016年の今に流行っているような、オ

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