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「勇敢な女子高生と、自由な自殺」①/最果タヒ『十代に共感する奴はみんな嘘つき』試論(文學界2016年4月号掲載)

 最果タヒの放つ言葉を、わたしは一文字たりとも捨てられない。読み逃せない。それはまるで、〈言葉〉に縛られて、がんじがらめになって、この世界に存在しているすべての〈言葉〉を掬いあげなければならないと必死に信じていた、十代の時みたいだと思う。

 わたしが十代だったのはもう17年も前の話で、思い出してみればその頃のインターネットというのは今とは少し違う場所だった。2016年の今に流行っているような、オープンで受動的なSNSは記憶にあるかぎりあんまりなくて、あの頃はガラケーによるブログサイト、いわゆるホムペが全盛期、そして招待制のmixiが少しずつ広がりはじめた時期だった。ホムペにしろmixiにしろ、自分から深く深くその世界に潜っていかなければ他人とつながることはできなかったし、それに何より、あの頃のインターネットは、今のインターネットよりもずっとずっと〈言葉〉に近かった。言葉〉がなくてはならなかったし、そこで生きているみんながみんな、〈言葉〉への強迫観念に囚われていた。日々のなにげない出来事をかけがえのないものとして表現しなければならなかったし、そしてそれに直面した自分の感情はぜったいにそこに書き残さなくてはならなかった。怖るべき長文のブログを毎日欠かさずポエジーだっぷりに書き上げて、友達に、あるいはインターネットの向こうの誰か公開していたという奇妙な行為の記憶が、あの頃に十代を送ったひとたちにはきっと心当たりがあるはずだ。

 すべての〈言葉〉を掬いあげて、語り尽さなければいけなかった。けれど長文のブログに仕上げて語れば語るほど、そこには語りえぬものが生まれてきてしまう。だからその語りえぬものを語るために、もっともっと〈言葉〉を駆使して語らなければならない。そんな負のループによって長文のブログはさらに長文化し、自意識が醜く肥大化していった。それが思春期の過敏な感受性と結合して、自己嫌悪に陥った。

 いま冷静になって考えてみれば、あの頃自家中毒になっていたその語りえぬものとは、つまりは〈心〉だったのかもしれない。〈言葉〉で抽象的に切り取ろうとしてもできなかったもの、あるいは〈言葉〉にすることができなかった残りものを受け止める場所。

 と、そんな記憶を掘り返していたらふと、そういえば最果タヒというのは、この〈心〉の成立していく過程にむけて、そしてその過程のなかで自己嫌悪になりいっそ消滅してしまいたいとまで考える未熟な〈わたしたち〉に対して、「だいじょうぶだよ、今はそのままでいいよ、愛している、大好き、だから消えないで」と声をかけ、イタさもつらさも幼さも、否定なんてせずに、そのすべてを全力で抱きしめにきてくれる。そんな存在なのではないかと思った。

意味の為だけに存在する言葉は、ときどき暴力的に私達を意味付けする。その人だけのもやもやとした感情に、名前をつけること、それは、他人が決めてきた枠に無理矢理自分の感情をおしこめることで、その人だけのとげとげした部分は切り落とされ、皆が知っている「孤独」だとか「好き」だとかそういう簡単な気持ちに言い変えられる。けれど、それは本当に、その名前のとおりの気持ちだったんだろうか。いつのまにか忘れてしまう。恋なんて言葉がなくても、私はそれを恋だと思っただろうか? と、気づかなくなる。私達は言葉の為に、生きているわけではない。意味の為に生きているわけではなくて、どれも私達の為に存在しているものなんだ。−1

意味付けるための、名付けるための、言葉を捨てて、無意味で、明瞭ではなく、それでも、その人だけの、その人から生まれた言葉があれば、踊れなくても、歌えなくても、絵が描けなくても、そのまま、ありのまま、伝えられる感情がある。言葉が想像以上に自由で、そして不自由なひとのためにあることを、伝えたかった。私の言葉なんて知らなくていいから、あなたの言葉があなたの中にあることを、知ってほしかった。それで一緒に話したかったんです。–2

 これは詩集『死んでしまう系のぼくらに』(リトルモア/2014年9月発行)のあとがきだ。この世界につぎからつぎに生まれてくる未熟な(あるいは、かつて未熟だった)〈わたしたち〉への、最果によるやわらかなまなざしがここには確かに記されている。表象という存在そのものが孕む〈言葉〉の暴力性、その対象支配への反抗。そんな命がけの最前線に最果自身が率先して立ち向かうことを宣言した、心臓がえぐられるような言葉だと思う。

 わたしの〈言葉〉を安易にカテゴライズしないでほしい、カテゴライズされたものには、カテゴラズされるいわれはない。たとえばわたしが恋をした時、それを恋と安易にカテゴライズしないでほしい。わたしがしている恋そのものは、世間から恋と呼ばれるあの現象とはなにひとつ関係がない。恋のような〈言葉〉が今わたしの中にあることを、ただただ、わたしはあなたと共有したい。ここに書かれているのはきっとこんな当たり前の感情だ。わたしの心のなかで、この『死んでしまう系のぼくらに』のあとがきはとても強い支えとなって、いつだってわたしを優しく受けとめてくれる。


1、〈嘘つき〉たちの物語−−学校の中のカズハ


 『十代に共感する奴はみんな嘘つき』を読みはじめて頭に浮かんだのは、そんな『死んでしまう系のぼくらに』のあとがきに記された言葉だった。なぜなのか繋がっている気がする、そう思っていたらちょうど最果タヒ自身がTwitter でこんなふうにつぶやいていた。

私のあとがきとか詩とかが好きな人には気に入ってもらえる小説かもしれないです。–3

 わたしは最果本のあとがきとか詩とかが好きな人なので、なるほどだからそうらしい。だったら『死んでしまう系のぼくらに』のあとがきで宣言されていた、表象のもつ暴力性へのあの反抗は、『十代に共感する奴はみんな嘘つき』ではどんなふうに語られているんだろう。 

 ふたつの作品をつなぐキーワードは〈嘘〉なのではないだろうか。

 そもそも〈嘘〉とは何なのか。〈嘘〉というのは〈想像(イメージ)〉だ。現象をフィクション化してしまう〈嘘〉という存在は、〈想像〉であり〈言葉〉であり、〈物語〉でもあるとも言えるかもしれない。誰かが象った〈言葉〉を介して人間同士がコミュニケーションをとり、情報を共有して快感や円滑さを知ることで均一化と合理化が促進される、それすなわち近現代国家の成立条件である。

 と、いう話は、もはや手垢べったりの可燃ゴミ同然の思考だな。それこそ十代の頃、夢中になって信じて勉強していた物語だ、と今になっては思うけれどそれはともかく、その近現代国家という〈大きな物語(メインカルチャー)〉がリミットを迎えた60年代後半以降、その〈大きな物語〉が大嘘だったと知った人々は〈小さな物語(サブカルチャー)〉の世界へと移層した。〈大きな物語〉も〈小さな物語〉も根底では両方とも〈嘘〉の世界のお話だけれど、〈小さな物語〉の世界は横や個のつながりを重視した〈アンチ物語〉の世界だから心づよい。けれど、それはとても、とても脆い世界でもあったのだった。

感情はサブカル。現象はエンタメ。つまり、愛はサブカルで、セックスはエンタメ。私は生きているけれど、女子高生であることのほうが意味があって、自殺したどっかの同い年がニュースで流れて、ちょっと羨ましい。−4

 『十代に共感する奴はみんな嘘つき』の冒頭、主人公のカズハ(唐坂和葉)は、自分をとりまく世界とそこで起こる出来事に対してこんなふうに冷静に距離をとる。

 愛(感情)=サブカルとはつまり、〈小さな物語〉の世界へのまなざしだ。虐げられていたものへ、優しく身を寄せること。多数派や超越的なものに対して不信感を抱き、そして、それらに頼ることなく自分にとって大切なひとたちだけを内在的に連帯させていく。上や下に大きく手を伸ばして見えない誰かと必死につながろうとするのではなく、横にいる大切な誰かとそっと手をつなぐ世界へ変化することで、わたしたちは心穏やかに生きることができる。

 セックスという行為は過剰な現象で、そしてその過剰さは、〈大きな物語〉という壮大なエンターテインメントの一部なのではないか。そんな空虚さに、カズハは高校生にして早くも気がついてしまった。まじわることと食べること、それらの行為は〈生きること〉に隷属する自己の再生産エンタメの一形態だと言えるのかもしれない。

 そしてカズハにとっては〈学校〉という場所もまた、そんな自己再生産エンタメの世界のひとつなのだった。


 わたしの記憶のなかの中学高校時代は、コミュニケーションという戦場の最前線に誰彼関係なしに否応なく立たされて、その絶望的な状況にただひたすら呆然とするだけの毎日だった。

友達が大好きとか言いながら友達の話が退屈なのは事実でした。彼女たちがする話が芸人よりおもしろいわけがない。つまり、人間たちはどこまでも人間に不満があり、最高におもしろくて最高に美人な友達が欲しいけれどそもそもいないからテレビを見るの。−5

団子が美味しいから私は彼女たちと一緒にいるのが楽しかった。共感だとかそういうものは知ったこっちゃないけど、おいしいものはおいしいし、それだけで場はもつ。ナツは東京、しかも山手線の内側で暮らすのを夢見ていて、でもそのためにはかわいくなければいけないから高校卒業したタイミングで整形するの、プチ整形するのって話をしていて、いろいろ大変ですね、って感じ。二重にしたらすべてが変わるようなそんな予感がしている彼女は幸せなのかもしれなかった。私は生まれつき二重だし、その願望にわかるとか言えないし、共感って難しい。コミュニケーションは困難だ。わかるとか思えないことにわかるとかいうのも気持ち悪いし、かといって自分が誰にもわかってもらえないのは不愉快だから、だから圧倒的に間違っている人を見つけて、みんなで石を投げよう! 非難しよう! とてつもない快感があって、やっぱり共感っていいよね、と一人の死体を前にハイタッチ。−6

 カズハは〈学校〉の中で「とりあえず」属すべき場所を得ているらしい。スクールカーストの頂点にいるわけではないけれど、おそらくそれなりの発言力をもつクラスメイトのナツ(神田夏)のグループに属し、何人かの女子と教室や帰りの時間をともにしている。けれど、カズハはそんな彼女たちと《絶対的な絆》を作ろうとはけっして思ってはいない。彼女たちがそこにいるから一緒にいる、ただそれだけ。ナツたちとの会話に盛り上がる一方、心の中では《友達が大好きとか言いながら友達の話が退屈なのは事実でした》と文句をつぶやき、《いろいろ大変ですね、って感じ》と冷笑する。ナツたちの共同体には意地でも居心地のよさを感じない。

 〈学校〉においてはコミュニケーションがすべてで、そのコミュニケーションを成立させるためにはぜったいに〈言葉〉を絶やしてはいけない(それが証拠に作中、ナツたちとカズハはまるで機関銃のように噂話や恋愛話をしゃべりつづける)。カズハは、そこで生まれる〈言葉〉はすべて〈嘘〉なのだのということを最初からきちんと心得ている。教室の中は何もかもが〈嘘〉と〈想像〉でつくりあげられている。ナツたちはほとんど〈想像〉の世界で、みんなと距離を測ってコミュニケーションしているのだといってもいい。

 カズハみたいに〈学校〉の中で「とりあえず」属すべき場所を得ているということは、裏返してみれば、「ほんとうは」属すべき場所がどこにもないということではないのか。自分の意志とは関係なく、ただ女子高生であるというだけで〈学校〉に放り込まれたカズハは、〈学校〉内で一見自由であるように見えるものの、やがて、まるで真綿で首を絞められているような黒い感情を抱きはじめる。 

 些細なことでも情報を共有し、グループ全員でまとまって行動するナツたちからは「コミュニケーション能力があれば仲間(安全圏)に入れてやる、だからお前も身につけろ」という無言の圧力がいつだって発されているので、そこから逃げることはとてもむずかしい。けれど、もしこれにおとなしく従ってしまったら、ナツたちの発するいやらしいコミュニケーションのロジックを肯定することになるし、カズハはそのロジックの一部になってしまう。じゃあ一体どうしたらいいんだろう。

 そこから抜け出す解決方法はきっとひとつだけ。それは、同じグループに属しながらもナツたちとは別のロジックに立ち、その場所から相手と対峙すること。そうしてカズハが見つけたそのロジックは〈恋〉だった。けれど残念ながら、それを見つけたその瞬間、待望の〈恋〉はすがすがしいほどの失敗に終わる。

好きです、付き合ってくださいって、昨日隣のクラスの沢くんに言ったら、ああまあいいよ、って言われて、は? まあいいよってなんだよ、付き合ってってのに、まあいいよで対応するの? まあいいやで付き合うの? 貞操観念どうなってんの? 男子ってそんなもんなの、女子もそんなもんなの? とりあえず付き合えたらいいのか? くそ、絶対めんどくさい女になってやると思ったけれどそれもめんどくさくてすぐやめちゃった。やっぱやめようっていったら、ふざけてんのって言われて、お前に言われたくないって思うのは私が悪いんだろうか。−7

 《ああまあいいよ》というおよそ告白の返事らしかぬ沢くんの言葉に、呆れたカズハは告白即沢くんを振ってしまう。そもそもカズハが沢くんを告白相手に選んだのは、誰かを《好きっていう気持ちになってみようと思った》その瞬間に、ちょうど陸上部の彼が目の前を走り抜けていったから。ただそれだけ。理由もないし、片思いでもなんでもない。《「そう、走ってて、タイミングだっていうから、恋は。だからタイミングで好きですって言いに行ったわけ」》 

 カズハにしてみれば「まあいいよ」という到底信頼できない、これはちょっとありえなさすぎる、そんな返答に興ざめしてやっぱりやめた。それだけだったのに、沢くんが告られて振られたその小さな事件は、やがて意外なところで炎上をはじめる。その日の放課後、いつも一緒に帰っているナツたちが、カズハをひとり教室に残して下校してしまった。沢くんのことを好きだった(と推測できる)ナツが、グループを先導してカズハをハブったのだ。

 置いてきぼりをくらったカズハの目に飛び込んできたのは、教室をひとりで掃除している、つねにヘッドフォンを付けて外界を遮断しているおとなしいクラスメイトの女子だった。

 黙々と掃除をつづけるその生徒の名前は初岡。ちょっとしたきっかけでカズハと初岡のあいだにコミュニケーションのきざしが生まれるものの、初岡はそれ以上カズハに踏み込もうとはしない。

で、ここから会話をすればいいのに、ヘッドフォンはそれからまた床を掃いている。ここから友達を作ればいいじゃん。私と仲良くしてクラスって結構いいなとか思えばいいのに、諦めているの。意志がみえない。やりたいことがみえない。−8

 初岡の挙動にとまどいながらも苛つくカズハ。と、ふたりのいる教室に件の沢くんがヒョイっと現れる。そこから、まるで小さな救命ポッドのような三人のささやかな共同体が生まれ、「告白されたのに即振られてちょっと怒ったけどなんか話してみたらおもしろくなってきてカズハのことが好きになったかもしれないから付き合ってみようよ」という底抜けに明るい沢くんと、「好きだと思ったけどもう好きじゃないからかまわないでほしい、ってどれだけ説明しても話が通じないしほんともうかまわないでほしい」というカズハ、そして、ひとり残って掃除をしているところを目撃され「いじめられているの?」と沢くんからいきなり確信を突く質問を投げかけられた初岡の、なりゆきまかせの帰り道がはじまるのだった。

 ところで、この初岡というのがややこしい。

その瞬間、沢くんが、あのさ、いじめられてない? と言ってあきらかにヘッドフォンの顔を覗き込んだのだ。私も見る。それは認識をきいているの? いじめられているつもり、って?「え、やっぱりそう見える……?」彼女は答えた。「うん、ちょっと。それに、いじめられている人間がいじめられているって思ったらいじめらしいよ。名前なんだっけ」−9

しかしいじめなんてないんだよ、沢くん。私は言うのだ。だってだれも初岡の悪口なんて言わないし、初岡さん友達いないよねとは言うけど、きもいよねとかくさいよねとか言われているとこみたことない。掃除をみんながさぼろうとしているときに、一緒にさぼろって言ってくれる人がいないっていうそれだけで、初岡はさぼることができないから一人でやっていたっていうそれだけ。−10

初岡のことなんてくさくもきもくもないし、勝手にやってる人だと思っているから放置しているのに、話しかけてこないとか、友達になろうって言いにきてくれないとかそれぐらいのことでいじめだとか泣かれて、いや別に見える範囲では泣かれてないけど、夜に泣いてますみたいな顔されて、それに傷つくってまるで私が初岡となかよくしたいみたいじゃないか。それなのに彼女は私たちのことをしれっと軽蔑して、私の世界とかいうヘッドフォンと耳の間の空間に閉じこもっている。「本当のいじめにあっているひとに悪いと思わないの」なんて、他人の不幸を借りるような最低なやりかたで、一回殴り倒したくなる。−11

 カズハから見れば、クラスメイトによる初岡へのいじめなんてぜんぜん存在してない。具体的ないじめ現場など見たこともない。初岡が勝手に自分をいじめられっ子だと認識している、ただそれだけの話だ。それよりも問題なのは、「自分がいじめられっ子」だと認識することで、初岡の方も「クラスメイトたちはいじめっ子」であると〈嘘〉の〈想像〉をしてしまう点だ。と、カズハは感じている。いじめの〈想像〉が相手に対する負の〈想像〉返しとなる。それは果たして、クラスメイトによるいじめではなく、初岡によるクラスメイトへのいじめでもあると言えるのではないか。

 〈学校〉というセンシティブな場所では、加害者と被害者がつねに流動的に入れ換わる。その交換の中で、初岡のように自分が被害者になったということにこだわってばかりいると、それはやがて潜在的な加害者へと変化してしまう。過剰な被害者意識はおのずから攻撃性を帯びていく。モンスタークレーマーみたいなものだ。被害者意識の増長は、被害者をしだいに加害者と同じロジックに陥らせることになる。

 ただ初岡は、モンスタークレーマーのように、あきらかに攻撃性を帯びた被害者とは随分様子がちがっている。初岡のおもしろいところは、そのいじめられているという認識をけっして誰にも〈告発〉しないところ、その絶対的な沈黙の中に生きているというところだ。

 初岡自身はそんな状況には鈍感で、その沈黙を自分では《「だけど私しゃべるのうまくない……つまんないよ?」》と、単なる口下手なのだと認識している。あるいは、声をあげることができないのは、自分が「弱い」からだと、カズハや沢くんに説明する。

「そうじゃなくて、私は強くないの。だから自分の思うことを言い続けることができない」−12
「唐坂さん、友達いなかったことないんでしょ、一人ぼっちに……されたこともないんでしょ、だから……だから知らないんだよ。誰も話しかけないってことがどういう暴力になるか。そこに攻撃が加わったらどうなるか……想像して怯えて暮らすの。無視だけじゃなくて……もっと、悪口とか嘲笑にさらされたらって。そういうことがわかってないんでしょう? 私たちは一人一人教室にいて、多数決で「こいつは生きていていい」「こいつは話していていい」「こいつは笑っていい」ってみんなに決めていってもらっているんだ。唐坂さん……、唐坂さんは声大きいよね。でも大きく笑ったり、大きな声で話すことすら、生意気みたいに見られる人がいるって、しらないんでしょ? 知らないからそうやって……話すんでしょ?」−13

 初岡は自分の立場をひたすら悲観する。学校におけるそのつらさ、その現実を、そのまま単純に悲しんでしまう。ヘッドフォンという防壁のなかでうずくまり、怖いものごとが通り過ぎていってくれるのを、初岡はひたすら目を閉じて待つばかり。

 《「でも、唐坂さんもいじめられているんだろ」》と沢くんが言うように、ある視点から見れば、ナツたちからハブられたカズハも、初岡と同じ「いじめられっ子」にカテゴライズされることになる。けれどカズハは、初岡と同じ立場には絶対に立とうとはしない。というより、ハナから次元が違うのだと怒りすら抱く。いじめていようがいじめられていようが、ナツのような楽観主義者であろうが、あるいは初岡のような受動的な厭世主義者であろうが、結局自分たちは〈学校〉の外へは出られないのだということをカズハは初めから知っている。いじめだか、コミュニケーションだか知らないが、自分たちは、ここで生きるための必要経費としてのリスクを背負っている。そのことをきちんと意識しなければいけないのだと、カズハは初岡にはっきりと告げる。

「ていうかなんで傷つくことをリスクみたいに言うの? 傷つくことはなんのマイナスでもなくただの感情でしょ。しかも一瞬だけの。それって生まれた時から最初から、必要経費として計算に入れておくべきじゃない? 体育で怪我に怯えて見学してたら怒られるよ。傷つくのは当たり前じゃない。それを必ず避けるべきリスクみたいに言うのはなんなの」 冷凍食品だとか外食とか、できなくなるよとか私は言う。彼女はまだまだあなたは強いからわからないのだと言って、自分だけがかわいそうで、自分だけが磨り減っていて、もうそのリスクすら飲めないのだとか熱弁する。自分の知っている範囲でしかモノを言わないなんて傲慢じゃない? なんてそれこそ傲慢なことを言われても、私は怒らなかった。彼女は私が17歳の同級生であること忘れているのだ。「私のこと、保護者だとでも思っているの?」−14

 初岡もカズハもともに厭世家であることは間違いない。けれど、そこには大きな断絶がある。初岡は受動的な厭世家で、カズハは勇敢な厭世家なのだ。

 とはいえ、そんなふうに意気揚々と語る勇敢な厭世家であるカズハも、ナツたちのコミュニケーションのロジックに絡めとられないための方法「恋」は失敗に終わらせてしまった。ナツたちのグループからはハブられてしまい、自分はその一員から外されかけている。もう、もと居た世界には戻れない。

 ナツたちのグループから、別の新しい共同体へ移り住むには、誰かからの〈承認〉が必要となる。〈学校〉という「道徳的な場」では、沢くんが《「わかってるなら対処すればいいのに」》と言っているように、〈承認〉されていない人間がいれば〈承認〉して、互いの承認格差を失くすことが大切だ。ナツたちの共同体よりも上に行くことができないのならば、下の共同体に行くしか方法はない。下で誰かに〈承認〉してもらわなければ、カズハはもう〈学校〉という世界で存在しつづけることができなくなる。

 そこでカズハが〈恋〉に変わるロジックとして思いついたのが、ほかならぬ〈いじめ〉だった。

「じゃあ、初岡さん私のこといじめていいよ」(略)「はあ?」「教室の黒板とかに私の悪口書いていいし、机にマジックで死ねとか書いていいよ。やってみたら? 強くなってみたいでしょ」 なんでそんなこと? したくないし、って言うけどでも、強くなりたいってそういうことだ。強くない自分を哀れんで、でもそのままにノーリスクで強くなりたいと思うから、弱いことを理由に傲慢になる。唐坂さん、無茶苦茶なこと言っているよと沢くんは言うけど、私傷つかないからやってみそ、って言ってくれる人がいるならラッキーぐらいに思えばいい。ロックとかパンクとか、結局傷ついた人が誰かを傷つけたくて、でもできないから叫んでいる。そういう感じで私をいじめてみたらいい。−15
「……そんなことなんで私がしなきゃいけないの」 なんでそんなこともされてないのにいじめられているとか思っちゃうの? 言おうと思えば簡単だった。「きみのこと悪くいう友達なんていなかったし、クラスでそんな噂話聞いたことない。でもみんなのこと悪魔みたいに思ってるんでしょ。未熟だもんねしかたないよね、でもそんな思考なんでできるんだろう」だけどそれはただの正論、彼女に言ったところで意味がない。だから、反論させてあげたい、平等に殴り合ったほうがいい、それで私はいじめていいよって言っているんだけど、伝わらないの? これも伝わらないならもう一体、どうしたらいいんだろう。−16

 過剰な被害者意識を帯びて、いじめの〈想像〉が相手に対する負の〈想像〉返しとなっている不健康な初岡の、その〈想像〉を〈想像〉ではなく、実際に行為として存在するもの=〈現象〉として健康的に表出させてやりたい。カズハはふと、そんなふうに欲望する。 〈いじめ〉を創作することはカズハが新しい共同体の住人になることができるのと同時に、受動的な被害者である初岡を、能動的な被害者へと華麗に変身させることができるのではないか。

 〈現象〉はエンタメ。「いじめていいよ」と、〈言葉〉が〈現象〉を先取ることで、それを何よりも鮮烈な〈現象〉に創りあげる。誰かから「ほんとうのいじめられっ子」として侮蔑されることによって、カズハはようやくその行動を認められる。「いじめられっ子(マイノリティ)」とカテゴライズされることで、カズハの存在はやっと〈承認〉される。

 この時カズハは「侮蔑の目への快感」という矛盾を孕みながら、〈学校〉においてのアンチヒーローに姿を変えるのだった。


→②につづく




〔引用〕

1 … 『死んでしまう系のぼくらに』(リトルモア/2014年9月発行)P94

2 … 同上P95

3 … 最果タヒ@tt_ss 2016年3月5日22時15分のTweetより

4 … 『十代に共感する奴はみんな嘘つき』(文學界2016年4月号所収)P100

5 … 同上P103

6 … 同上P109

7 … 同上P101

8 … 同上P104

9 … 同上P108

10 … 同上P110

11 … 同上P110〜111

12 … 同上P112

13 … 同上P113

14 … 同上P113

15 … 同上P115

16 … 同上P116

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