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あいまいなもの

今年の夏、何度かスイカを食べた。その日もいつものようにカットして。よくある三角形の形。お皿に4まいほど並べて、窓際の机に置く。外の光がまぶしい。白いレースのカーテンがゆらゆら揺れている。外から乾いた心地よい風がすーっと入り込む。鳥のさえずりが聞こえる。その爽やかな空間の中で、紅くて瑞々しくてキラキラひかるものに無心でかぶりつく。シャリっ。ザクザクした触感とジューシーな感覚が口の中に同時に広がる。うん。すごくおいしい。とってもおいしい。でも、何かが違う。まるで今まで食べたことのない果物のようだった。わたしが今まで食べてきたスイカより、少し甘い、のかな、いや。うーん。なんだろう。

そのときは何が違うのか分からなかった。その違和感を解明したく、友達にも食べさせてみる。

 ねえ、どう?なんか違わない?
「うん?何も違わないよ、いつも通りのおいしいスイカじゃん、日本のとも同じだし。」
 いや、そうなんだよ、味は確かに変わらない気がする、けど何か違うじゃん。
「そうかなあ。ぼくにはわからないけど。でもおいしいし安くていいよね。オーストラリアでまさかこんなにスイカが食べられると思わなかったなぁ、」

おそらくこんな会話を繰り広げた。

一人になって、ぼーっとスイカの画像をひたすら検索していた。それくらい私にとっては衝撃的で、未知の体験だったから。

そこでわたしはある事実に気づいた。いままで私が食べてきたのはすいかだけではなかったのだ。そこにある光や風、音、匂い、そこに存在するものすべてを総称しての「スイカを食べる」という行為だった。そこに存在する空間を五感で味わっていて、そこに名前というラベルが貼られていた。
ここはオーストラリア。まず。気候が違う、湿度が違う。「古民家の縁側で、灼熱の太陽から発せられる熱風を浴びて汗をだらだらかき、朦朧とした意識の中で扇風機のスイッチに手を遣り、それでもひかない暑さを無視しながら目の前のスイカと格闘する」という光景のなかで食べたことは、、、実際にはないのだが、あまりにもそのイメージが強いのだ。(編集:いやそんなに死にそうになって食べるものではない) 少なくとも、私にとってのスイカは、汗をかきながら食べるものであった。小さいころからこの果物が私の前に差し出されるというときはきまって、「なにをしていても蒸し暑くやる気の出ない夏の真昼間に、クマゼミの鳴き声が耳をつんざくほどシャアシャアと響きわたっている中で、少しでもマシにと扇風機のダイヤルを強に設定しガンガンまわしながら、まあとりあえず食欲もわかないので、スイカでも食べて水分補給しつつ涼まりましょうかね」という状況であった。これが私にとってのスイカであり、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。

ここで味わうスイカは、あまりにも私に知っている「それ」とは異なった。パスタが似合う地中海気候の爽やかでカラッとした風、夏であるのに高く澄んでいて薄い水色の空。そんな中で頂く。勿論扇風機もエアコンもない。縁側でも日本によくある茶色いサッシに囲まれた窓枠でもない。壁はというと一面真っ白で、外を見れば、ガーデンと呼ぶに相応しく、とても手の込んだ木々と花々が色とりどり美しく咲いていて、時折吹く風にうれしそうになびいていた。

ああ、言葉とは何だろう。日本人同士ですら、あいまいなものだ。その言葉からイメージされるものはその人の経験に則ったものであり、だれにも強制はおろか片鱗を覗くことですら困難である。わたしたちはそんな不安定なものを不器用なやり方で交換している、いや、すべて自分の中の独り言のように分かった気になってラベルが貼られ収められている。それがときどき私をひどく不思議な気持ちにさせ、また怖くもさせるのであった。



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