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夜にはなれて

あの星が君だよ、と君が言うので、今ここにいる私を遠く過去の光にたとえるのはどういう了見かと問うと、君は困った顔をした。過去の記憶。



夜はどうしても薄目になる。日中一生懸命開いていた目が、一日の労働に耐えかねて、きゅ、と小さな点に向かって、収斂していく。そして、日がとじる。縮んでいく目に目蓋をかぶせれば、私の世界は一気に夜のふりをする。目蓋をひらくと、まだ夜は来ていない。君は、隣で寝息を立てている。健やかな生きもの。
君たちはすごくあっけらかんと、事が済めば昼をひきずることもなく、夜を始めてしまう。私たちだけが、いつも取り残される。空っぽのまま。空っぽの私たちは、満ち足りた君たちの横で、大きすぎる自分たちを抱えきれずに懊悩する。悩めば夜が来る、と信じているみたいに。ひとつの儀式として、孤独と向き合う。
向き合う果てに、薄くなった目に目蓋がおちて、意識に紗がかかり、待ち望んでいた夜が来る。私たちはそれまで、夜が連れ去ってくれるのをじっと待つ。時に泣きながら、自分を嫌い、自分を戒め、慰めて。今日も果てしなく遠い夜への道中、ひとつよみがえってくる記憶。
いかめしい名前の流星群が、極大になった夜だった。紫に煙る夕暮れの道、ほかに車は一台もなかった。左右から濃い緑で、森が迫ってくる。アスファルトの上に、私たちの乗る車のライトが曖昧に二筋、うっすらと線を引いていく。標高が高くなったせいか肌寒く、冷気がカーディガンの網目から皮膚をさした。深更が盛りのラジオは、夕方にはおとなしく、がさついた音を立てている。
「新月の後ですから、ほとんど月明かりの影響もなく、絶好の条件で、大変多くの流星を見ることができるでしょう」
アナウンサーが言う。道路交通情報の後に、しかつめらしい声で。
「ねえ、今日流星群だって」
あの日の私の隣にいた君に伝えると、君はハンドルを片手で支え、片手で目蓋を乱暴にこすって、
「俺、すっごい大きい流れ星みたことあるよ」
と言う。
「いつ?」
「高三の夏休み。みんなで海で花火して、その夜に、めちゃくちゃ大きいやつ。周りが明るくなるくらいの」
「新聞にのるくらい?」
「たぶん?」
「今日、流星群見れるかな」
「そうかもね」
会話は途切れる。ラジオだけが、何かをしゃべっている。太陽はもう沈んだ。両側の森の緑が、いつしか真っ黒い影のようにそびえている。助手席の窓を開け、腕を車の外にだした。カーディガンをまくった腕の内側が、暗闇の中で静かに白く光っている。車が切る風を、発光する腕で受ける。風の中、沈黙ごと、空気を吸い込む。夏の夜の、予感をはらんだにおい。
ロッジにつくと、宿泊客は私たちのほかに二組ほどいた。一組は家族で、ロッジのポーチに、大仰な天体望遠鏡を設置しているところだった。この日をめがけてくる人もいるのだ、と新鮮に思った。関係ないことばかり目につく私の手を、君がとる。二人で影を一つにしてついたロッジは、二人には広く、すこし埃っぽいロフトがあった。ロフトに上がると、小さな天窓がある。正方形のその窓をのぞき込めば、夜のはじまりの星々が、そこここで光り始めていた。
「ねえ絶対見えるよ」
私は声を弾ませて、
「楽しみだね」
と君もうなずいた。
外の夜は満ちていく。私たちは夕食を共につくり(山の中で食べる定番のカレーライスに、家からゆでて持ってきたゆでたまご)、セブンブリッジをして(君が4勝で私が3勝)、ココアを飲み、共同浴場へ行った。さっき天体望遠鏡を設置していた家族が、ちょうど出てくるところにぶつかった。男の子が、「はやくはやく」とせかしている、その声が耳の底に、薄く積もった。せかされるようにしてシャワーを浴びる。外に出ると、急いだ私よりも早く、君が立っていて、俯いて携帯をいじっている。私は、ロッジまでの道を、空を仰いで歩く。星が走るような、走らないような、むずがゆさが一帯を包んでいる。
ロッジに着く頃には、もう目は収縮していく一方で、一日の淵に危うくたっている心地がした。無理やり体を動かし、ロフトの埃をはらって、寝袋を敷いた。二人で、寝袋の脇のチャックを開けて、開いた隙間から手をつなぐ。頭上の天窓から、色の濃くなった空に、さっきよりもたくさんの星が浮いて見える。
「何時に見えるのかな」
「もう見えてるのかも」
君の、眠気を含んだ、重く、そして甘い声。その湿度をまとった声を、私は胸で受け止める。そこで会話は途切れる。君は私に乗り、私はいかめしい名前の星々を思う。薄くなった目の向こう、見えない星たちが回っている。何重もの輪になった、極彩色の光の粒。赤、オレンジ、黄色、紫、薄い青。私の知らないところで、目まぐるしく夜を駆けていく、星たち。駆けて、やがては線となり、矢となって、弧を描く。矢は、どこから放たれているのか、無軌道に、様々な方向から筋を描く。夜空の中、こちらのあずかり知らぬ点で屈曲し、すっと溶けては消えていく。降り注ぐ。
やがて君は満ち足りて、私を空っぽのままにして、身を横たえる。仰向けになった私たちの目の前を、星が走っていく。
「見えたね」
「たくさん見逃したかも」
君は、ひとりまっすぐ夜へと向かう声で、目蓋に腕の重みを預けて、笑う。
「あの星が、君だよ」
どこかで聞いたような台詞を君がちゃかすように口にして、私は、男の子が流星群を見られたのか気にしている。目の前をまた過ぎる星を眺める。薄くなった目が、星の軌道を乱して見せる。あの星は、今ここにはないんだよ。私たちが見てるのは、ずっとずっと前の光なんだよ。君も、あの男の子も、そのことを知ってるんだろうか。
「今ここにいる私を遠く過去の光に例えるのはどういう了見なのかな」
ぽつん、とつぶやくと、君は少し考えるふりをして、薄く笑って、やがて寝息を立てはじめる。君たちは、ひとりで夜をはじめてしまう。いつだって私を置き去りにして。
それは、過去の記憶。
あの晩の光が、今私の目に見えている。私は今日も、夜を迎えられずにいる。君は寝息を立てる。私たちは、今ここを生きる君たちの横で満たされないまま、いつも永遠に満たされることのない自分を抱えて、きっと来ない夜を、じっとひとりで待っている。

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