部活

こんばんは

実家であるものを見つけました。

『ブラバンノート』

ブラスバンドノートの略です(笑)私は中学校のとき、吹奏楽部に所属しており、トランペットを担当していました。

トランペットとは小学生の時のクラブで出会いました。最初の頃、私はトロンボーンがしたかったのですが、友達と希望が被ってしまい音楽の先生にジャンケンしなさいと言われ、なぜか家庭科室でジャンケンさせられたことから決まったんです

4つ上の姉が吹奏楽部に所属していたことから、姉のコンクールや演奏会にもよく家族で見に行っていたので、中学校入学時は吹奏楽部に入ることがほぼ決まっていました

小学生の頃から少し出来ていたということもあり、周りよりはリードした状態で始めた吹奏楽

姉は部長をしており、3年間全部金賞でした
だから、私もここの部活に入れば金賞が取れるもんだと勝手に思っていました

入ってからはすぐにコンクールの練習が始まりました。私の代と同時に先生が替わり、前の先生から引き継いだ先輩たちも、初めてで分からない私達も戸惑っていました

吹奏楽は意外と体力的にきついかった
高校で体育系の部活に入ったので分かったのですが、体育系は場所の確保が必要なので他の部活と譲り合いになり、思ったようにはやりたい練習ができません

それに比べて、吹部は音楽室や教室、外でも練習出来るので、週末や長期休みは一日練習ばかりでした

絶対姉と同じところまで行く
と意気込んで練習していましたが、メンバー同士の関係や先生との関わりが上手くいかず、それがもろに音にも出ていました

1年生の時は『言われたことを練習』から『言われないように練習』というふうに先生や先輩に合奏中なるべく目をつけて止められないようにしていたので、キツいと言うよりは、やらなきゃ仕方がない作業感覚でした

1.2年のときのコンクールは、銀ばっかり。自分たちでも感じていたけど、金よりの銀ではなく銀そのものの評価

悔しい気持ちよりもまあそうだよなと半ば諦めていたところもありました。

2年の夏頃、新しい部長を決めるとき立候補制だったので、私は迷っていました

たぶんどの部活より厳しい先生に元々なぜか突っかかれやすかった私は、生徒会役員にさせられたり、勉強や友人関係についてもよく先生に色々指摘されていました。なので、部長になったらもっと先生と関わらなければならないし、先輩を見ていて地獄の毎日が想像できるのです

なのに、締切の前日。なぜか私は先生の元に部長がしたいですと申し出ました

今でも、何であの時その選択が出来たのか不思議です

部長になった毎日は今でも忘れない壮絶なものでした

後輩が何かしたら呼び出され、他の楽器のパートが何かあったら指導され。なによりもコンクール前のホールまでの楽器出し、保護者への配慮、合奏中の緊張感、OGへの対応全てが中学生の私には初めての体験で、責任感や重圧を日々感じながら生活をしていました。

その時はただガムシャラで吹奏楽のために学校に行く。吹奏楽のために早起きをする。部活は私の一部でした。

夏。この日のために練習してきたのは私たちだけではない。長い時間をかけて今日のこのコンクールのために何人もの人が練習し、ここにやってきたのだと3年生になって初めて重みを感じました。

先生の指揮に集中し、ステージが始まり、演奏後は音がホールに響き跳ね返ってくる音が自分の中にすうっと入ってくる感じがあり、何か余韻がすごく大きかったのを覚えています。

その時の私はもはや、賞が欲しい、これなら金賞が取れるかもしれないなどの期待ではなく、『楽しかった。楽しすぎた。』と仲間と共有する気持ちの方が大きかったのです。

結果は金賞でした。いわゆる九州大会には進めないダメ金でしたが、私にとって目指していたはずの評価が後付けかのようで、評価してもらうことは本番でやり切る準備をできたことへの達成感を感じさせる材料として意味を持ちました。

私の忘れられない中学生の部活。この時の体験が今の私の糧になります

あの時あんなに頑張れたのに、今の私が頑張れないはずがない

そう思わせてくれる私の大切な思い出です。



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