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マドリード歴史博物館 1

先日、ある用事で市内に行ったとき、歴史博物館が近かったので、立ち寄りました。(寄り道大好き!)

昨年も行った博物館で、その時はあまり時間がなく、さ~っと見ただけでした。

今回は時間たっぷり・・・でもなかったのですが、昨年よりもゆっくりと見れました。

このバロック建築の博物館は、サン・フェルナンド・ホスピス(緩和ケア)でした。

この入り口を見るとサグラダ・ファミリアを思い出します。似てますね。ゴシック様式だったかな?


似てないか・・・

写真はお借りしました。


マドリード歴史博物館の建物全体をパノラマ撮影

入場無料でした。

無料なんてすごいなぁと思いながら入ると、この銅像が迎えてくれました。

誰?

この人(名前はRamón Víaラモン・ビーア)1936年から1939年まで続いたスペイン内戦で、共和党派で戦い、内戦が終わると、1940年から1944年までのフランスのレジスタンス/抵抗運動に参加し、それが終わると今度はスペインに戻って、1946年に亡くなるまで、フランコ体制に対するゲリラ活動をしていたのだそうです。一生戦うために生まれたような人だったのですね。

彼の横には女神様のような銅像がありました。

銃を掃除している彼を見つめているような感じですよね。


昨年行った時に、一階には昨年1月にマドリードに降った大雪の写真が展示され、今年(今回)は約100年前のマドリード(1900年〜1936年)の写真が展示されていました。

1936年からスペイン内戦が始まったので、その前の町並みというのは、今とかなり違うだろうなと思いながら見始めました。

45枚の写真が展示されていたのですが、わかりやすい写真だけを載せます。

光が反射しないように撮ったので、斜めで撮影した写真が多いです。

この写真はプエルタ・デル・ソルのようです。

プエルタ・デル・ソルの地面をアスファルトにする工事(1902年)

火事の跡のよう。線路がありますね〜。

マヨール広場(1909年)

最近はスペインに観光に来ている日本人や他の東洋人の女性しか日傘をさしてないけれど、当時はスペイン女性がさしていたことがわかります。日傘の方が帽子かぶるよりも髪が乱れなくていいのになぁ。

マドリードのメトロ開通式(1919年)

国王のアルフォンソ13世(1886年〜1941年)が写ってます。

アルフォンソ13世のあるエピソードを読みました。

1921年3月3日から9月3日までの間に、パリで、日本の皇太子(のちの昭和天皇)と昼食会を共にした(皇太子が御馳走になった)ことがある。このエピソードは長く不明となっていたがアルフォンソ13世の孫のフアン・カルロス1世が1980年に来日した際に、昭和天皇自身が「(皇太子時代の欧州訪問中に)私はあなたのおじいさんにごちそうになったことがあります」と明かしたことをきっかけに詳細が明らかとなり、スペインと日本の関係の緊密化に寄与した[8]。

ウィキペディア

こんなことがあったんだと言うことをはじめて知りました。

ウィキペディアに記載されていたので、嘘ではないと、思ったのですが、私は仕事でいつも検証もしたりしてた(本当にいつも検証だらけ~!)ので、一応スペイン語で探してみたら・・・

やっと見つかりました。


でも、思い出したことが!!

検証するのが好きで、検証ばかりすると・・・・

腱鞘炎になってしまうと小林正観さんのダジャレを思い出してしまいました😅😂

あ、話がそれてしまいました・・・イツモノコト

アルフォンソ13世と昭和天皇の食事のことが書かれている記事はここです。

スペイン語を読んでいたら、下の方に英語で1921年にスペイン国王アルフォンソ13世が主催した皇太子裕仁親王を招いた昼食と記載されてました。

しかし!!! フアン・カルロス1世が1980年に来日した際に、昭和天皇自身がアルフォンソ13世との昼食を語ったかどうかは分かりませんでした〜😣

メトログランビアのひな型?写真(1920年)

Templete はひな型。これがひな型かぁ~。建設関係の専門用語かな??

グランビアからプエルタ・デル・ソルにつながるモンテーラ通り(1921年)

路面電車が走ってます。大学時代に逢坂剛さんの本(私は逢坂剛さんの本をたくさん読み、どの本だったか題名を覚えてないです。ごめんなさい)で、マドリードの路面電車のことが書いてあったのですが、ふうんと思っただけで、調べもせず、数年前まで本当に通っていたとは思っていませんでした😅勉強不足です!

プエルタ・デル・ソル(1932年)

当時も人が多いような・・真ん中はバス?

これは2022年の工事前。

建物は変わってないけれど、写真を昔と比べると、違いはメトロの入口かな。

メーデーの日のマドリードのカフェテラス(1935年)

こんなにたくさんの人がカフェテラスに座っていて、内戦も終わってないのに大丈夫だったのだろうかと疑問。余計なお世話か!


この柱の横を通って、隣の部屋に移動!

天井も高い!


隣の部屋の中に入ると、いきなり「フェリペ2世(1527 - 1598)*」がご挨拶!?

*スペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した偉大なる王で、絶対主義の代表的君主の一人とされている。

ウィキペディア

部屋に入ったら、見たことがあるような、ないような絵が飾ってあり、誰の描いた絵かなと思って、近づいて見たら、ディエゴ・デ・ベラスケスの絵でした。

入場無料の博物館で、まさかベラスケスの絵が見れるとは思いませんでした。

ラッキー👍🏻👏🏻

これは、フェリペ4世とマリアナ王妃の息子「カルロス2世(1661-1700)」この人は先天性疾患を持ったとてもかわいそうな国王です。

顎と下唇が・・・

Carlos II, 1661年11月6日 - 1700年11月1日)は、ハプスブルク(アブスブルゴ)家最後のスペイン国王(在位:1665年 - 1700年)。

ウィキペディア

出生時から病弱な人物であり、当時その理由は「呪いをかけられたため」と一般に考えられており、カルロス2世自身もそう思っていた。現在では、彼が病弱だった理由はおそらくハプスブルク家の何重にも繰り返した、近親婚[1]によるものであろうと考えられている。
先端巨大症を患っており、下顎前突症(俗に言う「ハプスブルク家の顎」)が著しかった。咀嚼に影響があり、常によだれを垂れ流していた。その他、癲癇や知的障害なども併発しており、片足を引きずって歩いていた。さらに老人性だったらしく、35歳の頃には禿げ上がっていたという。
先述の通り、幼少期は衣服を身につけた動物のようだったらしく、まともな教育を受けることも困難であったという。

ウィキペディア

すぐ隣にかけてあったのは、カルロス2世の2番目の妻である「マリア・アンナ・フォン・デア・プファルツ=ノイブルク

結局、カルロス2世には、最初の奥さんとも彼の病気が原因(と言われてます)で子供は出来ませんでした。

と、今は彼が原因だと言われてますが、当時は奥さんの方が責められる時代だったようです。カワイソウニ😢


マリアナ・デ・アウストリア(1634-1696)-スペイン語名

フェリペ4世の2番目の奥さんで、カルロス2世のお母さん。フェリペ4世が亡くなって、カルロス2世が小さかったので、大きくなるまで彼女は摂政をしたのですが、途中で宮殿から一旦追い出されたようです。

こちらはフェリペ4世。カルロス2世のお父さん。

やっぱり、顎と下唇に特徴がありますね。j


カルロス2世の子供の頃(1635年)

かわいらしくて、顎も目立たないですね。たぶんきれいに描かれていたのかなと思います。


カルロス5世とフェリペ2世(1639-1640)

アントニオ・アリアス・フェルナンデス画

スペインの歴史ではカルロス5世はカルロス1世。

ちょっとややこしいです。

その子どもがフェリペ2世。

つまり、絵は親子でした。

お父さんは温かい目で息子を見てます。

ローペ・デ・ベガの埋葬

ローペ・デ・ベガ(1562-1635)はスペインの劇作家、詩人です。

この絵の近くには寄れなかったので、後でネットで絵の名前を調べたのですが、この絵の下には大きな穴がありました。

この穴に何があったのかは分かりませんが、大きな岩だけが見えました。

まさかここには何か埋葬はされてないのでしょうね。


2階へ上が ります。

マヨール広場(年代?)

シャッターが禁止されていたので、暗くて見づらいですね😣スミマセン!



マヨール広場(La Plaza Mayor)1623年  - 王室の祝宴

昨年の記事にも載せました。


マヨール広場(1620)

真ん中は行列のような・・・


ビジャメディアーナ伯爵の死(1868)

マヌエル・カステジャーノ(1836-1880)画


これは今はなきマドリードのアルカサール(宮殿/砦)の模型

マドリードのアルカサールは、1734年に原因不明の火災で焼失するまで、スペイン王国の王宮として使用され、現在、マドリード王宮が建っている場所にあったそうです。


マドリードのアルカサールの眺め

今の王宮と似てます。

暴れ牛のいるセゴビア橋から見たマドリード

暴れ牛見えるかな〜?


サン・イシドーロ礼拝堂の模型

王宮やアルムデーナ大聖堂の近くにあります。

これが実在する礼拝堂。

1643年に工事が開始。途中中断されて完成したのは1669年。1936年7月18日、内戦勃発の数時間後に礼拝堂と教区教会が放火され全焼したため、戦後は全面的に再建され、その修復は1991年まで続けられたのだそうです。

アトーチャの聖母(1671年以降)

16世紀、17世紀、18世紀には、スペイン国王の特別な守護神、王政の守護聖人とされたのだそうです。

どうやって撮影しても顔が暗くなってしまって見えないので、ここにお借りしたものを貼ります。

と言っても、暗くて顔が見えないですが、

ズームすると、

少し見えますね。


セバーダ広場のグラシアの聖母の行列(1741年)

セバーダ広場はラ・ラティーナ地区(マドリード中心)にあります。市場が開かれたり、色々な行列でにぎわってたようです。

こちらはアトーチャの聖母の奇跡(1676-1700)

戦いの犠牲となった騎士を救ったという奇跡


次の部屋へ。

こんな感じで奥までが長〜い部屋でした。

大きな絵がたくさん。
長い部屋

今回は、スマホで写真をアップロ-ドにするのが遅くて、何日もかかってしまいましたが、この続きはまた書きま〜す。

++++

遅くなってスミマセ〜ン😅🥰

お知らせをいただいてました。

こんなにゆるゆるになってしまっても、たくさんのスキをいただいて嬉しいです。

いつもありがとうございます🙏🏻♥️


この続きは早めにアップしますので、またよろしくお願い致します!

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