1995年1月17日5時46分52秒

ミシミシ...という音が遠くの方から聞こえてくる。
すると家族の誰か(おそらく母)が、「地震!」と叫ぶ声が聞こえた。
上を向いたままパチッと目を開けると天井の蛍光灯が振り子時計のように揺れていた。

隣に寝ていた兄がバサッと布団に潜りこむのが横目で見えて、すぐに自分も同じようにした。

ガタガタガタガタガタ...という音はいつの間にか
ガタンガタンガタンガタンガタンガタン...という大きな揺れを表す音に変わっている。

布団に潜って小さく身体を丸めていたからなのか、体感した揺れがどんなものであったのかよく分からない(もしくは思い出せない)が、ぎゅっと目を瞑った暗闇の中で家が軋む音と家中のものが揺れたり落ちたりする音が合奏していた。
本のようなものが複数同時にドサドサと勢いよく落ちる音を聞いて「あっ」と思ってすぐ、揺れは収まった。

数秒間のとても静かな時間があった。
そーっと布団から顔を出すと既に立ち上がっていた母が私に気付いて、
「大丈夫やから、寝とき。」と言った。
なにが起こったのかよくわからないが、母に言われるまま布団に潜っていたら、いつのまにか眠っていた。
ふと目が覚めて、ばっと起き上がりテレビを付けたまま新聞(当日の朝刊か?届いていたのか?)を読んでいる母の横に立つと、そこから隣の部屋にある自分の本棚が見えて、収めていたはずのピアノの教本や楽譜類が全て落ちていた。
この音だったのか、みたいなことをぼんやり考えていると、母が、
「今日学校休みになったから。」と言った。
その言葉をなんとなく受け取って、同じ場所に突っ立ったままテレビの画面をぼーっと観ていた。左上に表示される時刻は7時を過ぎたころだった。


震災当日の記憶はここまでで、翌日にはもう登校して教室に入ったら全員分の椅子と机が3,40㎝程度ズレていたのを皆で元の位置に戻したこと、ベルマーク箱が落下して中身が散乱しているのをじっと見つめたこと。こんな記憶が記録映像のように頭に映し出される。

大阪市内でも被害の小さいエリアで、日常に戻るのがとても早かったと思う。被害の大きかった大阪や兵庫の映像を初めて観た時はただただ驚いた。同じ地震が招いたことだとは想像もつかなかった。
当時はとても受け止めきれなくて、また同じことが起こったらやだな。
次にもう一回揺れたら家が壊れるのかな。などと考えて不安だった。

蛍光灯の揺れ方
痛いくらいに目を瞑っていたこと
布団から出た時のひんやりした畳の感触
母の新聞を読む姿勢
窓から射す光で明るい、青みがかった部屋
ズレた机と椅子
床に落ちたベルマーク箱

自分がいつか忘れてしまわないように、記録しておく。
我が家に被害が無かったのはただの偶然。
あの時、大切な誰かを失った人がたくさんいることを
当時7歳の私はなにも考えられなかったかもしれないけれど、
今の私は考え、学び、実行することができる。

阪神淡路大震災、東日本大震災。
二つの震災が伝えていることは同じ大地震でも違うところがあるように思う。
それぞれの震災から何を学び、何に生かしてきたか。
被災者の声は聞こえているのか。
考える度に、暗闇にいるような気持ちになる。

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震災当時、小学校1年生

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