俯瞰

イジメのメドレーリレー〜お前はこれからも違う人と出会って同じように嫌われるんや!


第一章 躓いた未来への投資

#1. 1. 俯瞰

決断。

1995年4月、自分は柳学園に入学しました。同時にさつき寮8期生として入寮し、クラブは水泳部に入部しました。


本来なら近所の学校に進学しますが、自分はあえて淡路島での寮生活を選択しました。当時は明石海峡大橋がなかった時代。まさに孤立した島での生活になります。


なぜ、わざわざそんな進路を選択したのか。


それは未来への投資。学業とスポーツの両立するには、寮生活がいちばん適している、と。残念ながら、それは失敗に終わりましたが、悔いはありません。なぜなら投資に失敗はつきものだからです。


学業とスポーツを両立させる背景に何があるのか。


学業と体力が劣っていたからです。逆にいえばそれだけ伸びしろがあったので、そこに賭けた訳です。


その背景。


当時自分は同級生と仲が悪く、彼らは自分の欠点に付け込んでバカにしました。とりわけ小学校時代の同級生からは、徹底的に見下されたのです。たまに仲良かったという人がいますが、それは格下という条件付きです。間違っても対等になりえないのです。


いずれにせよ、自分は彼らを見返したいという気持ちがありました。残念ながらそうならず、かえって余計にバカにされたのです。


なぜバカにされたのか。


パパが神戸大学教授だからです。オヤジはアタマいいけど息子はバカ、という構図が、彼らにはでき上がっていたのです。


自分が見返せば、相手の反応も変わる。


自分はそう信じていましたが、そうはなりませんでした。この辺が若気の至りだったのでしょう。最近気付いたのですが、彼らには確証バイアスがあるので、自分が何をしようと自分への評価は変わらないのです。


一度身についたバイアスは二度と修正されない。


最近当時の同級生とお会いしたのですが、やはり当時のままでした。小馬鹿にした接し方である、と。向こうは親しみをもって接しているつもりかもしれませんが、自分にとっては屈辱的でしかありません。モノの見方によっては大人気ないかもしれませんが、対等に接することができない人を受け入れる程、自分の人間の器は大きくないのです。


今となってはどうでもいいことですが、当時はパパと比較されて屈辱的な思いをしました。それが取るに足らないくだらないことだと気づくには、まだまだ時間が必要だったのです。

・・・


サイトを検索すると…。


あれから30数年。柳学園の現在はどうなっているのでしょうか。まずは、好奇心に任せて「柳学園」を検索。


学校名は柳学園から蒼開高校になっています。そして理事長は四代目になっています。当時は二代目理事長が就任していて、三代目が副理事長でした。この三代目が事実上の理事長で、後の洲本市長になりました。


次に「柳学園さつき寮」を検索。


ヒットするのは「京都大学さつき寮」ばかり。なかなか出てきません。かろうじて出てきたのはとあるブログサイトで、さつき寮はクラブの合宿で利用されていたことが判明しました。つまり寮の運営は行っていないようです。自分は8期生なので、本来なら今年(2022年)に45期生が入寮する予定になっているはずですが、そうはなっていませんでした。


ただ寮が存在しないのかといえば、別のカタチで存在します。場所も当時進学部の寮だったはまゆう寮にあります。さつき寮と違うのは、体育会系クラブ所属者限定になっています。又同時に女子寮も存在していて、同じく体育会系クラブ所属者限定になっています。


一方で一般の生徒さんは通学が基本になっています。明石海峡大橋が開通して20年以上経つ現在では、高速バスでカンタンに通えます。所要時間も当時の約半分になっています。そして本州から通う生徒さんには、通学の定期券代の一部を、学校側が負担するという待遇も行っています。


現在の柳学園は、

  • 体育会系クラブ所属者限定の寮が存在する

  • 一般の生徒さんは通学のみ

  • 当時のさつき寮は合宿などで利用されている


さつき寮における失敗の本質。


この上記3項目からは、ひとつの見解が見えてきます。それは、


さつき寮の運営が失敗だった、と。


さつき寮の運営が成功していれば、OB会が存在するでしょう。当然ながら、同窓会やそれに伴うイベントが行われるでしょう。現にボート部には、SNSのコミュニティーが存在しており、しかも頻繁に更新されています。OB会やコミュニティーの有無だけで判断するのは、少し乱暴な気もしますが、ひとつの目安になります。


さつき寮が運営されないのは、確かに少子化や明石海峡大橋が開通したという外的要因もあるでしょう。しかしそれは大義名分でしかありません。やはり本質的には、運営そのものが失敗だったといえます。


もちろん失敗を責めるつもりはありません。当然ながら、故意に失敗する人なんていません。良かれと思ってやったことが裏目に出たにすぎません。しかしながら、やはり失敗と向き合う必要があるのです。


自分がさつき寮の運営が失敗だったと断言し、それが柳学園の黒歴史である、といい切れるのには訳があります。それは自分がさつき寮の寮生であるという当事者だからに他なりません。


当事者の視点からみたさつき寮。


さつき寮の運営の失敗だった理由で挙げられるのは、


  • 寮生の志望動機がネガティブ

  • 地元の人と打ち解けなかった

  • 寮生の親御さんのモラルの欠如


この3つに集約されます。自分と寮生との間には、大きな温度差がありました。


自分は柳学園には通常の通学では得られない付加価値を求めて入学しました。ところがほとんどの寮生は自分の意志で柳学園には入学していません。それどころか、親御さんのエゴによって無理矢理行かされているのです。そういう事情であれば、彼らがすさんだ感情になるのは当然でしょう。


自分は当然ながら前向きな姿勢で柳学園に入学しているので、地元の人と打ち解けるのに時間はかかりませんでした。しかし他の寮生は寮生どうしでかたまり、決して地元の人と打ち解けようとはしませんでした。そして地元の人を「島のモン」といって見下していました。


クラブ活動中は例外的に地元の人々と一緒に活動していました。ただ寮をやめるとクラブもやめなければならない、という不文律もあったのです。ちなみに自分はこの不文律を破っています。当然でしょう。


親御さんは寮生活に何かを求めていたというよりは、さつき寮に丸投げしていた、と解釈するのが妥当です。事実上、合法の育児放棄といってもいいでしょう。


寮に掘り出せば育児から開放されます。学費に生活費を上乗せするだけでいいので、合理的です。又当時は明石海峡大橋もなかった時代なので、帰宅も容易ではありませんでした。つまりさつき寮は、親御さんの都合で成り立っていたのです。


自分は学校運営をとやかくいうつもりはありませんが、寮生が寮の内外でトラブルは起こすわ、地元の人と交わらずに文句はいうわ、でうまくいくはずがありません。地元の人々はこの状態について多くを語りませんが、この状態を放置すれば、地元の人々からもそっぽを向けるでしょう。


さつき寮からの教訓。


学校側からすれば、もはやさつき寮の寮生を看過できないと判断したのでしょう。生徒との信頼関係にもかかわることですから。それこそ存続にもかかわる重要な問題である、と。


蒼開高校となった現在の柳学園は、さつき寮の黒歴史を、教訓として学んだと思われます。現在運営されている寮は、対象者を絞っているので、健全な状態であることが想像できます。ただし体育会系なのが気がかりですが…。


現在の蒼開高校の印象。


現在の四代目理事長は、非常に戦略的な学校運営を行っているのではないでしょうか。もっとも少子化が進んで久しいので、悠長なこともいってられないのでしょう。サイトをみると、いろんなカリキュラムを次々と発表しています。学校の存続のために他校との差別化を図っているようですね。


冒頭の挨拶でも申し上げましたが、自分は柳学園への進学に悔いはありません。なぜなら自分は柳学園に未来への投資を行ったからです。投資に失敗はつきもの。先ほども指摘しましたが、自分は寮生活に通学では得られない付加価値を求めました。


悔いはなかったものの、適切な判断であったかは、考える余地はあります。なぜなら自分はさつき寮に入寮する際、寮生の親御さんの人相をみて、この進路は失敗だった、と既に悟っていたからです。


失敗だとわかっていながら修正しなかったのであれば、問題を放置した、とも解釈できます。当時の時代背景からみて、途中でやめるという判断は、現実逃避であるとか、ケツを割ったといった解釈が一般的でした。根性がない、と。


周りから何といわれようとも、自分はさつき寮はもっと早くやめるべきでした。仮にさつき寮をやめて近所で下宿したとしても、同じ結果になっていたでしょう。というのは、下宿は寮生の嫉みをかう行為になりますので、何らかのカタチで、彼らは自分を学校から追放したでしょう。


といいつつも、寮生活を全面的に否定するつもりもありません。寮生活の1年目はうまくいってました。さつき寮は2年目で破綻した訳ですが、水泳部ではうまくいってました。この状況がやめる判断を狂わせた、といっていいでしょう。


柳学園で過ごした2年間を振り返る。


これから書く作文は、そんな寮生活と順風満帆に推移した水泳部を行き来したお話になります。


「あの時は辛かったけど良かった」。


当時のさつき寮の寮生のOBが書き残した文集にも、このご時世の御多分に漏れず、異口同音にこのように書かれていました。そしてそれが本当に良かったのかを、これから解き明かしていきます。


自分は同期を含めた歴代のOBの方々ともお会いしましたが、この美談が欺瞞であることを証明するには、十分過ぎる程の証言を得ています。この件については、後ほど詳しく書きます。


又自分は上級生からの集団暴行で全治2週間の怪我を負いました。それでもお咎めなしでした。怪我をしても、良かったといわなければならない、と。


毎年毎年、歴代の上級生が幕引きを図って逃げ切り、卒業式には「終わり良ければ全てよし」として、何もなかったことにしておこうという姿勢。


明らかに現地では浮いた存在であったさつき寮。間違っても地元の方々と調和を図ろうとしない寮生の姿勢。これだけ条件が揃っていれば、さつき寮を存続させること自体に無理があります。そんなさつき寮の失敗の本質についてみていきます。


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