期待と執着
このような結果になったらいいな。
結果を望んで行動を起こしたり、日々努力していることもあるでしょう。
しかし結果に対する期待、そして執着しすぎていないか少し心を感じてみましょう。
結果に対する期待の思いが強く、執着している心の根底には、心配や恐怖があるかもしれません。
で、なぜ心配や恐怖の思いが強くなるかというと、
自分は相応の努力していないから結果が出ないかもしれないとか、自分はその結果を得るに値しないという思いがあるのではないでしょうか。
期待している状態というのは、いわゆる実現するのを待っている状態です。
前回の時計の話でいうと、
期待もまた今を生きることが出来ておらず、空白の状態です。
期待するというのは、結局何もない空白をずっと感じている時間ということになります。
なにかことを起こせば、結果を期待するのは当たり前ですし、変化を望んでその結果を待ち望む心も出てくるでしょう。
では、期待とは一体何なのでしょう。
自分に期待する、相手に期待する、社会に期待する、よくドラマで教育熱心なお母さんが子供に向かって、
『○○ちゃんには期待しているんだから』というセリフがあったりしますね。
多くの場合、その言葉がプレッシャーになって、子供を苦しめたり、本人はそこまで思っていなくても、必要以上に頑張らせるようなイメージがあります。
期待している時、実はそれ自身を見ておらず、別のものを見ているような気がします。
そして、期待された人はそれに応えようと頑張るかもしれません。
例えば、相手の期待通りにならなければ失望される、など
その結果にこたえられない自分に絶望するような気持になります。
結果に執着して恐怖を感じているのは、この絶望を味わった経験があるからではないでしょうか。
自分が必ずその結果を出す、とわかっていれば、結果に対する期待はさほどないでしょう。
むしろもう答えがわかっているので、どこかリラックスした状態でもあります。
しかし、期待の気持ちや執着が強いときは、どこか自分を信じ切れていないし、前述のとおり、そのような結果にはならないだろうとか、それに自分が値しないと思ってる可能性があります。
ここまで書くと、自己卑下してしまうとか自信のなさのような感じがしますね。
私はこれが理由だと思っていました。
ですが、真の理由はそうではないと思うのです。
結果に対する期待が強いとき、実はそれを自分が受け取ろうとしていません。
期待というのは、実は外部からのもので、真実は願望=結果としてもう見えています。
なぜなら、現在・過去・未来はなく、すべては今・今・今だからです。
過去→現在→未来でいうなら、
願望→期待→結果となるでしょう、
しかし、
今・今・今であるならば、
願望・結果これは同じ時に存在するものです。
ですので、期待の空白の時間はなく、願った瞬間に結果は出ています。
では、空白の期間である期待とは、一体何なのでしょう。
期待とは、結果を受け取るのを拒んでいる時間ではないでしょうか。
先程、自分には受け取る価値がないとか、その努力にふさわしくないという思いがあると書きましたが、
本当はそう思い込んでいるだけで、受け取るという決断を拒んでいます。
なぜなら、自分で決めたくないからです。
結果を外側の誰かに任せていて、自ら受け取ろうとしていないからです。
なぜ受け取ろうとしないのでしょう。
まずは、その結果を本当は望んでいない可能性があります。
誰かに言われたから、とか社会的にもそのように生きないといけないから、といった風に、自分が心から望んでいない結果であれば、口では叶ってほしいと言いながらも、当然自分でその結果を受け取ることはしないでしょう。
次に、それを強く望んでいたとしても、自分が受け取る勇気がないのです。
誰かに決めてほしい、外側の誰かに自分の現実を創造することを任せてしまっている場合も同じく結果は出ないでしょう。
なぜなら、本来創造しているのは自分自身で、外側の何物も創造に介入することはできないからです。
では、なぜ創造することや結果を受け取るのを自分以外のものに任せてしまうのでしょうか。
それは、今までそうしてきた、というのもあるかもしれませんが、一番には、自分がそのような大それたことが出来る存在だと思っていないとか、創造する側ではなく、される側だと思いこんでいる、ということもあるでしょう。
自分という存在が、人生を創造していくなんて、まるで神様にでもなったような、そんなことを言えるわけがない。
わかります。
しかし、考えてみてください。
あなたは日々何かを創造しているはずです。
例えば、朝コーヒーを飲みたいなと思ったら、自然に身体が動いてコーヒーを手元に置いているでしょう。
また、カフェに行けば、何をしなくても手元にコーヒーが来るはずです。
その時に、コーヒーを苗から作り、豆を焙煎してという段階を踏んでいないから、私はその努力をしていない、だからコーヒーを飲むに値しない、などと考えますか。
考えないですよね。
コーヒーについては創造と受け取りを許可します。
ということは、他の何でも創造することも受け取ることもできるのです。
ですが、○○については創造も受け取りも拒否します。
と自ら発しているのに、受け取れないのは自分のせいではないというのはおかしいでしょう。
ではなぜ、
受け取れないものがあるのでしょうか。
まず自分を創造するものであることを忘れてしまっていること、そして長年創造される側のように生きていたので、物の見方をすぐに変えられないということ。
もう一つには、すぐになんでも創造できるとわかってしまったら、実は人生は退屈だし、面白くないということ。
面白いドラマを見るときに、必ず主人公は何度かピンチになります。
そこから這い上がっていく姿に勇気をもらえるし、時代劇なんか特にそうで、最後に必ず正義が勝つとわかっているのにはじめは悪がはびこんで、それを退治するのをついみてしまいます。
ですので、まるで時代劇のようにすべては予定通り、ピンチもチャンスも予定通りなのではないかと思うのです。
苦しい状況や病、これらが予定通りだと考えると気持ちがつらくなるかもしれませんが、ドラマから離れると、幸不幸はなく、すべてが素晴らしく愛であるとわかります。
何があっても、どんなことが起きても、すべては周波数を変えた愛です。
ですので、どんな出来事もはじめはそうは思えないかもしれませんが、すべては愛で包まれていると思ってみてください。
受け取り許可するということは、
自分と自分のすべてを愛で包むということです。
どんな出来事も、自分も、すべては形を変えた愛であり、また愛で包まれていると信じることです。
その愛の形が、自分には愛と見えなかっただけです。
いかがでしたか。
期待や執着、恐れと不安。
動画で捨てられた子猫が、人間に対して震えながらシャーってしているのをみたことがあります。
人間は怖いことをしようとしておらず、毛布と食べ物を用意して、そっと撫でようとしているだけなのに、子猫にはそれが見えていないから恐怖なのです。
あなたなら、震えてシャーしている子猫になんて声を掛けますか?
きっと怖がらせないように優しくなでながらこういうでしょう。
『大丈夫よ、大丈夫よ』
愛を感じられなくなったら、この言葉を自分に掛けてあげるといいのではないでしょうか。
猫にしてみれば、まさか自分が優しくされて、毛布とご飯があるなんて想像もできないでしょう。
それと同じで、結果は想像を超えたものがやってくるということです。
不安や恐怖が出てきたら、
一旦落ち着いて、私はシャーする猫だったんだなと気付けばいい。
自分で言いにくかったら、私があなたに伝えます。
『あなたは素晴らしい人です。大丈夫です。』
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