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写真と植物と無関心、のちに興味、のちに好き。

こんにちは。とーかちです。

先日、私の誕生日に彼女と京都府立植物園に行ってきました。

誕生日に行こうと言われた時、
正直な話、私は植物と聞いてもあまりワクワクしませんでした。嫌いだからではありません。果てしなく「無関心」だったのです。
呼吸もしてない。成長を感じられない。魅力を感じない。
私はそんな静の美を感じ取る力が鈍いんだと思います。

また、私と植物との歴史もドラマチックなものもなく、

小学校の時に育てたヒヤシンスは私のやつだけ枯れてしまい、家の庭の花壇で私が埋めたマリーゴールドだけ台風でボロボロになり。

…どうやらこの時から私の無関心さは植物たちに見透かされていたようです。

ただせっかくの誕生日。彼女も楽しみにしている。
別に嫌いというわけでもないのでジメジメしたバスに揺られ植物園へと向かいました。

彼女の趣味は写真です。ことある事に写真を撮り、会う時にはいつもスマホカメラかフィルムカメラを首からぶら下げ、そのレンズはいつも私を見てました。

私は初め、カメラにも「無関心」でした。1枚の写真から伝わる情報量はほんの僅か、そんな刹那を追いかけることにどんな魅力があるのか、私には分かりませんでした。「動画でいいのに」
そんな無神経な言葉を吐いて悲しませたこともありました。

ただ、最近はカメラを撮ることに「0.8くらいの興味」が出てきました。理由は今でもわからないです。ただなんかしっくりくるんです。握った感じの感触とか、目から脳内に入るシャッター音の響きとか。

植物園の中に入るやいなや、私は圧倒されてしまいました。植物の種類の幅広さだけじゃない、自然が持つ力だったり、厳かな香りがしたりと、今までの人間と植物の主従関係が逆転したかのような感覚になりました。言い換えると、植物の中に私が入ってくる感覚。

私は半ば強引にカメラを奪い自分でも分からないくらい夢中になってカメラのシャッターボタンを押しました。

「この不思議な感覚を残したい、記憶にも記録にも」

…ん…?

「これが「興味」か」


ふと気づいてしまったんです。

その興味の対象が、「無関心」だった植物に対してなのか、「0.8くらいの興味」だった写真に対してなのかは分かりません。ただ、それはあやふやなまんまでいいと思い、シャッターの音を止めることはしませんでした。

何事も初めは無関心なんです。自分が好きなものも初めは無関心からはじまって。自分の気づかないうちに「興味」が心の中に生まれて。気づいたら好きになって。
だから、目に見えない「興味」を追いかけるのは無駄だって思ったんです。漠然としたものを自分の力で無理やり好きを形成しても、その好きは歪んでいるかもしれない、本当の好きとはズレちゃってるかもしれない。だから、生まれた「興味」には知らんぷりをしたまんま、好きになった瞬間に気づいてあげればいいじゃん。そう思ったんです。

そんな鈍感な心を持って、「無関心」から好きに生まれる瞬間を逃さないように生きていきたいです。

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