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”出来る子”の人生 - いつか
いつもいつも、どんな状況でも、私は、
「出来る子」
です。
これまでも、これからも。
ふと思いました。
普段絶対に飲みにいったりなんてしない母が、この間、5年ぶりくらいに友達と飲んで、その人たちの子供たちの話題を沢山持って帰ってきました。
私世代の子供たちの話題。
かなり深刻で、え、それって笑い話ではなくない?、みたいな話ばかりで、
私の母が唯一でした。
「出来る子」を誇れたのは。
母は自慢話をするタイプではないので、「出来る子」については全く語ってないようでしたが、帰ってきて、
「みんなの話を聞いてたら、うちの子はすげえわって思った笑」
と笑っていて、私も父も一緒に笑った。
当然であり普通だとも思ったけど、シンプルに嬉しかったです。
でもよくよく考えたら、
これこそが、私が背負ってきた人生を象徴していることだと気づきました。
あれ?
嬉しかったのだけど…これ、なんか….
ああ、これか。
これなんだきっと。
知らない間に、私に自尊心と、喉元の苦しみを同時に与えてきたもの。
よく言う、プレッシャー、というものを感じたことはないと思います。
これはそれではない。
プレッシャーには、根底に責任感が伴うと思うんですが、
私の根底にあるのは羞恥心です。
もしも、この「出来る子」としての均衡が壊れる日が来たら、私はきっと耐えられません。これまで育った自尊心というのは、きっと一瞬で壊れます。
こんなに長い間で形成されたものは、絶対に一瞬で壊れます。
それが私です。
「出来る子」として育った以上、「完璧」でなければならないのです。
「完璧」でなければ、酷く恥ずかしいのです。
両親や家族の名声のために、誰かのために、そう思って行動することがあったとしても、根底にあるのは、自分が辱められないように、ということです。
だから、いつの日か、何か、選ばなければならない日が来た時、私が選ぶものが、その、自分を守るための選択であったら、どうしよう。
ずっとそう思いながら生きている。
このあまりにダサくて格好の悪い思考回路を、どうにかやめられないかと、頑張ってみたこともありましたが、そのチャレンジすらも結局は自分可愛さにやっていることなんだと思い、すぐに諦めました。
永遠に終わらない無限ループです。
こんなこと考えて生きているんだから、この人、自分のこと嫌いなんだろうなあ、と、見た人に思われそうですが、私は自分のことが大好きなのです。
積極的にそう思ったことはないですが、羞恥心を恐れている原因はそれだと思っています。
何を言っても、何が起きても、私は私のことが可愛くて、誇らしくて仕方がないのでしょう。
頭の中でそんなことを復唱したことはもちろんありませんよ、流石に気持ち悪すぎるでしょ。でも、そういう気持ちを持っている自分がどこかにいることを感じます。
一生、これからもずっと、この感覚と共に生きていかなければならないのかと思うと、疲れ果てそうです。
自分のことが好きであることは、人間誰しもある程度は必要なことです。そうじゃなきゃ生きられないとすら思います。
しかしながら私のそれは、非常に鬱陶しく、女々しく、姑息で、馬鹿馬鹿しくて、ウザい代物です。
だから他人を理解しようとしてもできなかったりするんでしょうか。
一体どうやったら、健康的かつ温和に自分をコントロールして、楽しい人生を送れるのでしょうか。
大人になると、不要な思考が余計に働いてしまうことを、最近実感しています。
私は本当に、大人になるのに向いていない、甘えたクソガキのままです。
p.s.
0時にお風呂上がって、ボディミルク塗ろうとしてたのにその状況のまま、こんなの書き殴ってるうちに1時を回っていて驚きと絶望に打ちひしがれている
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