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学習とは


誰もが子供たちに学習しなさいと言います。
学校では、学習は大切です、誰にも必要です、必ず役に立ちます、好き嫌いを言わずに勉強しなさいと子供達を諭します。
そして社会に出ても、学習は大事、生涯学習を続けましょうと、多くの人が口にします。

しかし、よく考えると、学習とは一体どういう行為を指すのでしょうか?
学ぶとは、何かを知る、覚える、理解するということなのでしょうか?
知識量を増やすことなのでしょうか?
ある技能、技を身につけることなのでしょうか?

シジフォスの苦行

実のところ私たちは、学習とは一体何か、その意味も本質も、目的やゴールすらも理解しないまま、ただ言われるがままに、よく訳がわからないまま暗闇の中を彷徨っているのではないでしょうか。

何が学習なのか、なぜ必要なのか、何を目指すのか、そして何が良い学習なのかが分からなければ、学習を面白い、楽しいと感じることは難しく、それは謂わばシジフォスの苦行。辛さしか感じないことを、誰も好き好んで進んでやろうとは思いません。

今一度私たちは、学習とは何かを強く意識すべきではないか。
今回は、この「学習」についてのお話です。

情報と知識

現実世界は情報で構成されています。
砂の一粒にも、膨大な物理的な分子、原子、電子、素粒子といった要素で構成され、質量、振動量、個々のスピン角、軌道など、固有の状態を表し変化する膨大な「情報」が凝縮されています。

無数に溢れる情報を体系化すると、それは知識となります。
知識は、情報を解釈し活用するためのフレームワークです。
北の風4m/s、気温26℃といったある状態を示す情報も、大気圏気象という体系化された「知識」を用いることで、測定地点の地理情報や気圧変化、周囲の観測情報と時間変化、そして過去の観測データといった様々な情報を組み合わせ、天候を把握し予測することが出来ます。

知識は絶対解ではない

しかし、こうした知識の多くは、ある固定された、ないしは単純された枠組みの中で示される固定解に過ぎません。ですので気象学が進化しコンピューターによる膨大な計算が可能となった今でも、完璧な天気予報をすることが出来ません。現代科学で出来ることは、ある確率下での予想、近似解を導くところまでです。

現代のAIがいかに進化しようとも、宇宙の理の完全な解明には程遠い現代科学の限界下では、完全な未来予測は不可能です。
ダイナミックに変化し続ける現実世界は不確実性に満ちています。

その不確実性により、微妙に、時に予想外に激しく変化する現実に対し、私たちは臨機応変な対応が求められます。そうした適応力・応用力を私たちは「知恵」と呼びます。ある条件下の固定解や、先人が遺した知恵を単に暗記しただけでは、生きた知恵となりません。
必要な応用力を得るには、知識を「知恵」に昇華させる必要があります。

様々な知識を自ら現実の世界で試し、観察し、その変化の過程と実際に生じる反応を感じる。その繰り返しの中で、知識を適切に使いこなし応用するための「モデル」を、自らの意識の中に構築してゆく。
知恵とはこの「モデル」であり、生きた関数です。

現代の学習の問題点

そう考えると、社会で唱え続けられる「勉強」「学習」とは一体何なのでしょうか。
改めて考えてみると、様々な問題点が浮かび上がります。

知恵であるモデル、最適解を導く関数の構築には、様々な知識を知り、様々な体系を理解することが必要です。これまでの文明で培われた膨大な知識を通じ、私たちは数多の先人達の叡智が編み出した知恵、一人では決して体験することが出来ない、幾万もの時間を費やして得られた体験のエッセンスに触れ、モデルの構造や関数の変数の特徴のヒントを得ることが出来ます。

しかし、これらをただ暗記するだけでは、本当の意味で使える知恵、生きた関数にはなりません。ただ暗記するだけでは、単に書物に記された文字、メモリーに書き込まれたデータに過ぎません。どんなに英単語だけを暗記しても、当意即妙な英会話力、言語化能力が得られないのと同じです。
そして、知恵を固定解、一意の絶対解として暗記するだけでは、そこに進化はなく、次の世代に継承すべき新たな知恵を生み出すことが出来ません。

私たちに必要な「学び」とは、知識に触れ、その体系の構造を把握し、現実世界にそれを活かしてゆくための「モデル」を自らの意識の中に創り出してゆくことです。

そう考えると、教室で教科書を読み、クイズの様な一意の正解を問うテストだけで学習成果を評価することは、望ましい「学び」には程難く、むしろ自らの「モデル」を構築してゆく、大切な創造力を損なう危険性を孕んでいます。

ただし、「モデル」を構築する時に、既存の知識の習得を軽視して良いという訳では決してありません。
従来の知識を体系的に学ぶことなく、独学と実体験だけで構築した「知恵」は、現実を歪曲して解釈し、最適解とは程遠い独善的な解を生み出します。

特に科学的検証を経ない分野では、正否や最適性の基準が主観で定められたものになり、再現性や普遍性に欠け、検証可能な批評も困難であることから、歪んだ知恵の温床となりがちです。

世界を理解し、未来を創造するモデルを創る

最適解を導く生きた関数である「知恵」を得るには、世界の構造と理の基礎となる、これまでの数多の探究により導かれてきた体系、すなわち多くの知識を学び、様々な角度からそれを検証し、実世界との整合性を探り、応用してゆくための多様な視点を拡げ、改善し続ける努力が必要です。

未来を創造してゆく、私たちの世界を深め、より良いものにしてゆくための「学習」とは、教科書を読み、教室で講義を聴くことで完結するものではありません。それは始まりです。

「学ぶ」ということ。それは、
多様な知識に触れ、様々な体系、理、現実世界を見る様々な視点・フレームワークを知ること。
今の常識に囚われることなく、積極的に既成領域の壁を超えて、多様な知識を組み合わせ、それらを現実世界で実際に試し、検証し、フィードバックを得ること。
その「思考」と「試行」の繰り返しを通じて、世界の全体構造をイメージし、様々な問題を解決してゆくための「モデル」を構築してゆくこと。
そして、このループを回し続けること。
この四つが「学習」してゆくことだと、私はそう強く信じています。

特に、最後の二つがとても、とても重要です。
このモデルを弛まなく創り続けることが学習の目的であり、より良いモデルの創造を目指すことが、学習のゴールではないでしょうか。

そのゴールは遠く、遙か遠くにあります。一人の短い人生で到達することは叶わず、完全に至るには悠久の時間を要するでしょう。
故に学習に終わりはありません。
だからこそ私たちは生涯学び続け、この営みを次世代へと繋いでゆく責任があると思うのです。

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