見出し画像

自由は人を幸せにするのでしょうか。

「不自由と自由、どちらが好きですか。」

まぁ、多くの人が自由を選びますよね。私もそうです。ただ漠然と、どちらが好きかと問われたら間違いなく自由を選びます。好きか嫌いかであれば確かにそうなのです。しかし、仮に自由が与えられたとしたら、それで私は幸せになるだろうか。最近はこんな自問もするようになりました。今のところ、自由は私を幸せにしないのではないかな、と考えております。裏を返すと、不自由な中にも幸せがありそう、と言うことです。

「不自由な方を選んでいました。」

色々経験して、色々な決断をしてきた今、振り返ってみると必ずしも自由な方を選んでおらず、わざわざ好んで不自由を選択したことも多かったのです。なぜその時の私は不自由な方を選択したのでしょう。

自由な方を突き詰めていくと、暮らしの中から「〜しなくてはならない」と言うものが減り、「〜しても良いし、しなくても良い」が増えていきます。自分のペースで暮らして行ける訳です。一見、心地よい世界のように思えます。しかし、それが選択肢の一つに加わっていても、私はそれを選択しないことがありました。それを選択するのに、恐怖を感じたのです。たぶん。

自由な方を選択した自分を想像してみます。指示や義務の少ない暮らし。そこで私は何をするのでしょうか。何もしなくても良いのかもしれません。何かをした方が良いのかもしれません。そのような環境の中に自身を置いた際、私は一体何をすれば良いのでしょうか。これが自由を選択した先に想像される恐怖でした。何をしても良いのに、あるいはしなくても良いのに、それを自分では決めることができない状態。決断のための材料がない状態になると考えてしまうのです。これは私にとって楽しいことではなく、恐怖なのです。

「不自由さの先にあるもの。」

おそらく無意識のうちにその恐怖を感じ取り、わざわざ不自由な方を選んでいたのではないかな、と思うようになりました。では、その不自由な方には恐怖は無い、あるいは少ないと言うことなのでしょうか。

不自由と言うと、その響きは確かに聞こえが悪いのですが最近は必ずしも悪いものではなく、むしろ心地よい時すらあると思うようになりました。なかなか選択の瞬間には気づいていないのですが、振り返ってみれば恐怖も少ないです。少なくとも自由よりは。

不自由な環境に身を置くと、やって良いことが少なくなります。対してしなくてはいけないことは増えます。間違いなく窮屈です。しかし、自由の時にあったような何をすれば良いのか、と言う迷いがありません。しなくてはいけないことがあるなら、それをすれば良いからです。自分で決断することが途端に減り、周囲に任せておけることが増えます。

不自由な環境では個性や独創性を発揮する機会は少なくなりますが、その一方で社会の一部となっていることに安心感を覚えることすらあります。些細な幸せとも言えそうです。これはアブラハム・マズローの言う社会的欲求が満たされる選択だったのかもしれません。この視点で言えば、自由を選ぶ時に感じた恐怖というのもこの社会的欲求につながるようにも思えるのです。

「どうすれば自由を選択できるのでしょうか。」

自由を選択することには恐怖を感じ、不自由を選択することには安心を感じる。それでも自由を選択するにはどうすれば良いのでしょうか。その先に恐怖があるにも関わらず、その先に進むのに必要な素養は挑戦と考えました。その挑戦をする上で必要になってくるのは報酬の大きさと勝算、そして損失の見込みということになります。これらが覚悟のための材料であり、それが揃うと私は挑戦できるのでは無いかと思います。

自由、不自由どちらを選択するにもこれらの情報は必要であり、その結果として楽な方として不自由な方に選択が偏っているのだと思います。しかし、その偏りを少しでも自由の割合を高めていきたいのであれば、自由の勝算を高めていくしかありません。

では、高い勝算を得るにはどうしたら良いのでしょうか。これはもう能力ということになると思います。能力が高い人が挑戦するのと、能力が低い人が同じ物事に挑戦するのと、どちらが勝算が高いか、これはもう明らかです。能力は勝算を高めます。

「自由を謳歌するには能力が必要」

自由の先にある恐怖、それに打ち勝って自由を謳歌するには能力が必要。これが今のところの結論です。とは言え、私自身はそれほど優れた人物でもなく、あらゆる分野で自由を謳歌できる感じではありません。その身の程を弁えた上での自由の領域を少しづつ拡大していくくらいが良さそうです。

能力を高めることが苦にならない領域で自由を求めていけば良いのではないか。これが最近の考え方です。それは狭い分野でも良さそうです。例えば、英語を勉強する。その期間はしなくてはいけないことがありますので不自由です。その結果、英語の能力が増します。そうすると英語がなくては入れない世界に入る恐怖が減ります。つまり、英語のある方の選択が可能になります。これは一つ自由が増えている訳です。インターネットで日本語で情報を探しても目的の情報に到達しない時、英語でも検索してみたら情報が得られた。これが日本語だけで検索する不自由さと、日本語でも英語でも良いと言う少し拡張された自由さによって謳歌できる恩恵です。

「能力が低いうちは不自由を受け入れる。」

会社に来た新入社員に何をやっても良いよ、と言っても堕落させるか困惑させるだけでしょう。最初のうちはあれこれ指示をしてあげる方が会社にとっても新入社員にとってもメリットがあるはずです。しかし、10 年目の社員に対してはそうでは無いでしょう。状況を踏まえて自身で決断いただいても良いはずです。新入社員よりは自由があります。

先程の英語の例も、この新入社員の例も、不自由な期間によって得た学びがのちの自由を選択する能力に繋がっています。全ての不自由の先に自由があるとは言いませんが、これらは不自由の先にある自由は想像しやすい領域であると思います。そういう分野における不自由にはそれなりに利点があり、将来それがその分野で自由を謳歌することにつながっているようです。

「その時期の私には不自由が必要だった。」

過去、不自由を選択していた理由を理解できたような気がします。自身の中で能力に自信を持っている分野では自由を選択し、そうで無い分野では成長の過程として不自由を選択していたようです。そう考えると好きでも無いはずの不自由を選ぶことが、その時期における安心につながっていたことも納得がいきます。

「自由は人を幸せにするのでしょうか。」

これが最初の問いでした。答えは「能力次第」というちょっとそっけないものになりそうです。ただ、その能力は自身の努力次第である程度のコントロールが可能です。そして、自由を得るまでは不幸か、と言うとそうでもない。不自由な中にも安心と言う些細な幸せがあることもわかりました。また、これらが同じ時間軸で繋がっている。不自由な中で能力を高めることで、その先には自由が恐怖ではなく楽しめるものになると考えられるようになったことが大きな発見でした。

実は今、英語を勉強しているんです。ちょっとずつ自由が増えているような気がします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?