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私の意志で子供を3人産みました。

どうも。毎度現場でお騒がせしております、絵ノ本です。
普段は「本屋業で子供を3人育てる」ことを目標に、松戸の八柱で約10名の店主と選書と店番をシェアする本屋「せんぱくBookbase」を運営しています。

「本屋で子供を3人育てる」とあるように、私には子供が3人います。
LGBTの人は子供を産まないから生産性がない、とか、(発言撤回はしたけれど)披露宴スピーチで子供は3人産むように、とかという自民党の方の発言を聞いて
子供を3人産んだ身としては「なんかこの人たちの意見に賛成しているみたいでいやだなぁ」と思いました。

子供3人、となると、仕事先から批判的な声もいただきます。
「え、また産むの?」みたいなリアクションをいただくこともありました。時々こんなことも聞かれます。
「どうして3人産もうと思ったの?」って。

結果論としては「授かったから」なのですが、5年前に私は
「あと2回しか産めない体」になってしまいました。
その2回に挑戦するか否か。5年前心ではなく、体が答えてくれたのでその答えに従うことにしました。

政治の話で度々取り上げられる「出産」について語ろうかと思ったけれど、まずはなぜ自分が3人産んだのか、から話そう、と思い、この話を綴ろうと思います。

緊急帝王切開で産める回数が決まった

「当院は自然分娩を推奨しています」
「アロマの足湯やマッサージなどございます」
「フルコースディナーが用意されています」……

実家で評判の、流行を取り入れた産婦人科を予約し、里帰り出産に臨んだ2月。

3D写真を見て赤ちゃんの顔を想像し、手作りのよだれかけやスリーパーなどを作ったり、と実家の猫と戯れながら誕生を心待ちにしていました。

お医者さんには、「絶対自然分娩がいいです」と伝えていました。
帝王切開だと産む回数が限られてしまうし、病院も選択できなくなってしまう。次に産むリスクが上がってしまうため、2人目の可能性も残したい私は、自然分娩を希望していました。
この時点で、必ず産みたい、と思っていたわけではありません。
あくまで、可能性として残しておきたい、決められたくなんかない、という程度でした。

医者は、帝王切開の可能性があることなど、一言も言いませんでした。

ところが、ある日の診察でいきなり「今日から入院してください」と言われ、慌てて入院準備をし、陣痛促進剤を打ち、赤ちゃんが降りて来ない、赤ちゃんの心拍が下がっている、と言われて夜を迎え、あれよあれよという間に緊急帝王切開を行うことに。

心の準備がないまま、脊髄麻酔を打たれ、吐き気を覚え、体の感覚がなくなり、医者同士が私のお腹をいじりながら、近くにできた産院の噂話をしているのを意識だけ生きている状態で聞き、赤ちゃんの姿を見て安心して気絶しました。

少しして目が覚め、手術台から病室に運ばれる中で、すべてが終わってしまったこと、もう出産のチャンスは限られてしまったことを、後陣痛の痛みを感じながら悟りました。

やけに広々とした病室で、両腕に点滴・両足に肺血栓塞栓症を防ぐための装具・そして尿管など、5本ほどの管を体につけて横たわりながら、何もできることがなく横たわる。
激しい痛みを抑えて、管をひきずりながらガラスの向こうで寝ている赤ちゃんを眺めるだけの日々。

赤ちゃんに会えたのは数日後。
自然分娩の人より遅い再会でした。赤ちゃんに触れられるようになってからは、ただ目の前に小さな命に夢中で、二人目とか、いっか。この子に会えただけでも充分。そう自然に思えるようになりました。

退院時医師から「産めません」と言われて

入院して10日が過ぎ、ふにゃふにゃの体に退院用の衣服を着せて、赤ちゃんを母に預け、私は最後の診察へ。

ただ体調のことやお風呂での術後のケアの説明を受けるだけなんだろうなぁ、と思っていた私は、医師の話よりも帰宅してから実家の猫と赤ちゃんが仲良くできるだろうか、とそんなことを考えていました。

帰宅後のことで頭がいっぱいだった私は医師からの
「********ので、産めませんから。」
という一言に頭が真っ白になり、本当に思いがけず、うっすらと涙が浮かんだのです。

直前の言葉は覚えていません。「産めない」という言葉が体の中で大きく響いて、何を話していたのか、全く覚えていないのです。

「…え、どういうことですか?」と聞き直すと
術後一年間は妊娠できない、と改めて説明を受けました。
帝王切開の場合、子宮が回復するのに時間がかかるので最低でも1年間は妊娠してはいけないのだ、と。
一生産めない、と言われたのではないのか、とほっとしたと同時に、「ああ、私、まだ産みたいんだ」と思ったのです。

1人目を産んだばかりで、母乳が出ない、体重が増えない、なかなか飲んでくれない、と悩んでばっかりで2人目なんて考えていないのに、産めないって言われただけで泣いちゃうのか。

言葉も感情も追い付いていなかったけれど、なんとなくこの涙が、もう一度産みたい、と教えてくれたように思ったのです。このときに「2人目も産みたいんだ」と自覚しました。

「もう一人ほしくなるよ」と言われて生まれた3人目

医師に告げられた時、確かに「もう一度産みたい」と思った。1人目を育てていても、やっぱりほしい、と2人目を望む気持ちが芽生えました。
子供はいろんな疑問やいろんな答えを本音で教えてくれる。
子供と暮らすって、とっても楽しい。もう1人いると、楽しいかもしれない。

2人目は、同じ夫婦の子供でも、育ち方も考え方も生き方も違うことを、教えてくれました。
じゃあ、3人いたらどうだろう。もっと楽しくなるかもしれない。

帝王切開で3人目と言うのは、それなりにリスクを抱えます。
同じ場所を何度も開けるので、術後の経過によっては2回が限度だ、ということもあるのですが、これも医師の言葉がきっかけでした。

2人目の妊娠のときに診てもらった医師から年齢を訊かれて答えると
「もう1人ほしくなるよ」と言われました。
そのとき「もう1人産んでいいんだよ」と脳内変換されました。
「ああ、この病院ではもう一度産んでいいんだ」と思えたのです。

与えられたチャンスを活かしたかった

妊娠や出産と言うのは「女だから」とか「男と女がセックスをしたから」という理由で必ず授かるものではありません。

私自身、思いがけず授かった1人目と違い、2人目はなかなか授かりませんでした。1度授かったからと言って二度目も単純に授かるとは限らない。ほしいからといって、必ず手に入るものでもない。

子供を産むか産まないか。妊娠していない状態から「産まない選択」という言葉が使われることもありますが、そもそも「産む機会」が全員に与えられているかというと、そうではない。子供がお腹に宿るのは、自分がこの年齢まで生きてこれたのと同じくらい、奇跡的なことなんです。

そのチャンスを、私は3回与えられたのだ、と1回目のときに帝王切開という手術を通して知らされました。

あとの2回に挑戦するか。無理に挑戦する必要はなかったと思います。
やりたい仕事もあるし、子育てとの両立を考えたら、1人の方がなにかと都合が良い。

望むか望まないか。望んでも手に入る確証はない。あるのは、授かるチャンスをあと2回与えられたという事実。
義務という意識は全くなく、ただ挑戦できるならしたい。結果は自ずとついてくるから。と。そんな、個人的な理由から3回チャレンジし、たまたま産むことができました。
出産一時金などの政策に感謝する部分もありますが、政策や議員の言葉など関係なく、ただほしい、と思ったから産んだ。

私が3人産んだ理由は、個人的なケースのたった一例に過ぎないし、言わずもがなな部分もあると思いながらも、なんだかいやだな、と思い綴りました。

最後に…

私は、LGBTを含むすべての人に「子育てする権利」があると思います。
すべての人に生きる権利があるのと同じくらい、当然のこととして。
また、直接的ではなくても皆なにかしらで「子供を育てている」とも思っています。

確かに、男性の持つ精子と女性の持つ卵子が出会わないと、子供はできません。でも、必ずしも「血の繋がった親」がいなければいけない、ということはないんです。

大事なのは「自分を肯定してくれる大人」に出会うこと。
それが女性同士であるか、男性同士であるかは、関係ありません。
血の繋がった親でも子供を否定ばかりする親とは一緒にいない方が良いし
満足に食事を与えられないなら、引き離すべきなのは当然です。

そしてもし子供達がLGBTだとしても、それが許される社会を整えていきたい、と願っています。
もちろん、子供達の友人にいたら、それを受け入れることのできる人間に育ってほしい。

これから、どんなことを子供達は学んでいくのか。
報道の裏で進んで行く法案、施策……いつだって、「常識」といわれるものには印象操作が関与している、と思っています。

これからの10年、20年のなかで、今を生きる子供達の価値観はどうなってしまうのか。
どんな時代を迎えても「自分で考える力を持つ人」であってほしい。
そしてその考えを、周囲の声を受け入れながらも曲げずに進む人であってほしい。

そういう社会を、整えていきたい。

(終)

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