小文:正しき自責は賢者の道

ちゃんと自分のことを責められる者。
いついかなるときも、常に、
己の欠けたるところを探す者。

彼彼女こそが賢者への道に入る。

自分の責めるべきところを
責められない者。
いついかなるときも探せない者、
探そうとしない者。

彼彼女は自ら賢者への道を閉ざす。

彼彼女は色んなところについて
己の欠けたるところを認められず
色んなところで進歩することが
できない。

色んなところで正しい認識ができず
歪んだ認識を持ち続けることになる。
そのようなものは真実を見ることは出来ない。
道も歩むことは出来ない。

スポーツで喩えれば、
己の欠けたるところを認識できぬもの、
探すことが出来ない、発見を喜べぬものは、
良い道を成就することはできない。
その判断は歪んだものである。

そしてその眼を他者へも向け
世間の価値基準が誤ったものとなる
その一つのピースとなり、
流れに加担することになり、
世を乱していくことになる。

そしてそのような者ほど声が大きく
怒りを制御できず
暴れ散らかして、権力欲を持ち
世をさらに乱していく。

人は常に、
己の欠けたるところを探し続けるべきである。
もし相手が悪いような場合であっても
己の欠けたるところを常に探す人間でなくては
相手のことも、起きた事態も
正確に把握できるような人間ではないのだ。
必ず視点に欠けがあり、
己の心をコントロールできず、
ものごとをより深く学んだり究めたりする
ということが出来ない可能性が高いのだ。

己の欠けたるところをよく眺め、
治すべきを治し、治らざるべきものを諦めて
己の善きところを伸ばし、人の為に使用する。
他者の欠けたるところは、
治すべきことは自ら治してもらい、
治らざるべきものは笑って受け入れて
他者の善きところに頭を垂れる。

そのためには、
何が善くて悪くて、
それが治すべきものか治らざるものかを
正しく見抜く力が必要である。
そのような眼が養われるためにも
常に己は己の責めるべきところを
常に見続けるような人間でなくてはならぬのだ。

わたしは常に
己の責めるべきことを探しつづけ
己の善きところを人に使いつづけ
他者の治らざる欠点を喜んで受け入れ
他者の善きところに頭を垂れ
生きている。
これは賢者への道のりであって、
決して賢者のゴールに至ったわけではない。
佛に成るまでの道そのものであり、
その身で治らざるべき欠点まで
転生の中で消滅していったとき、
その道のりのゴールにたち、
佛と成ったということである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?