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必ず演奏現場にいる男

えんじろうが演奏している会場には、雨が降ろうと槍が降ろうと例え他のお客様が誰もいなかろうと、欠かすことなく足を運んでくださるお客様が1人だけいます。
パフォーマーであってもそうでなくても、皆さんおひとりずつにも必ずそういう人がいると思うんです。それは普段からよく知っている人。

過小評価と美徳

美しく羽を広げる葉の写真

皆さんはこの葉っぱが何て言う名前かご存知ですか?はい、えんじろうはもちろん知りません(またか!)でもこの葉っぱが太陽に向かって凛々しく堂々と翼を広げて生きているのはよくわかります。
それだけでももうかっこいいと思いませんか?そしてそれに答えるようにスポットを浴びる瞬間を目にすることができたのも幸せなことですね。

僕たち日本人は相手を持ち上げ、自分を下げるという考え方を教えられてきた。
和を大切にする生き方としてそれは実際に素晴らしいことだと思う。常に相手を尊敬し、持ち上げて話を進めるのは確かに美徳とも感じるが、自分を卑下してまでそれを実現させることは果たして本当に素敵なのだろうかと考えてしまう。
なぜなら、上の写真のように自然界はそのような振る舞いはしていないから。日が当たっていない葉っぱたちは、たまたま今当たっていないだけのことなのだ。翼の葉っぱを引き立てるために、わざわざ日を受けないように我慢して自分を抑え込んでいるわけではない。

葉も虫も見習う

オカリナに出会ってから生活環境がぐっと変化しました。それまでのお話はまた別の機会にしてみようと思っていますが、とにかくとても良い循環に入れるようになったのです。
そして最近自然の振る舞いを見る機会が増えると、ようやく自分の行動が「自然と似た振る舞い」になってきたことを知りました。

葉っぱも虫たちも、生きとし生けるものは、自分が持っているものを惜しまず使って今やるべきこと(やりたいこと)を実現し続けている。
ただそれだけのことにようやく気が付きました。そしたらあらゆる思考がふっと軽くなりました。あらゆるリスクをベタベタに想像して足が上がらなくなるという現象が減ったのです。

やってから方向転換

まず動き出していいんだ。後から「なんか違う」と感じたなら、違うと感じた少し前まで戻ってそれとはちょっと違う方向に手を伸ばしてみれば良い。
これって植物がツルを伸ばしたが壁にぶち当たってしまい、少し方向を変えて延び直すこと。音楽ならばフレーズを練習しては間違えて、それを少し前からやり直すときと同じじゃん!

何もかもがオカリナの練習と同じ原理で、規模が違うだけと考えると、なんだか笑えてきます。そして心は本当に軽くなりました。

見守る男

出かける前の荷物と帽子の写真

演奏のたびに必ず足を運んでくれるお客様。それは自分です。
小学生の頃から自分の行動を監視し、かつてはちょっと何かをするたびに「文句」ばかりを言って阻止しようとしてきた自分です。

最近は穏やかにほほえみながら、時には苦笑いを浮かべながらえんじろうの行動を見守ってくれるようになりました。

「別に敵じゃなかったんだ」
ようやくそう思えるようになったというわけです。

自己満足から他者満足へ

自己満足は悪いことで、世のため人のために行動するのが良いことだと言われ続けていました。

でもしっくりこなかったんです。だって僕は人のためにと自分を押し殺しても、その人が満足してるというよりも当たり前のように思われているだけだったから。
更に自分はこいつのために色々我慢してやっているのにとイライラしてくるんです。その後自分はなんて醜い発想の人間だろうかと落ち込みます。

だから今は、まず「自己満足」させることを第1に考えています。満足している人の周りには、不思議とあかるい人達が集まってくるんです。偉そうと満足は違いますからね。僕はそこも区別できなかったんだと思います。

そうできるようになってから、見守る男のえんじろうがいちいち口を挟んでこないようになり、穏やかに見守ってくれるようになった。
うーん人によってはこの「見守る男」を自分ではなくご先祖様の例とか、神様が付いてるとか、そういった表現もするのかも知れませんね。

43歳にもなって、ようやくこんな事を考えながら日々音楽活動をしているえんじろうなのでした。

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