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あなたと私、どっちが正しい?

私は正しい!あなたが間違っている!
いや、悪いのはそっちだ!こちらは何も悪くない!

会社でも家庭でもプライベートでも、毎日言い争いは尽きません。それは僧侶の世界でも同じこと。一般人と僧侶、何も違いはありません。認めてほしい、自分が正しいと思う欲は共通です。

だからこそ僧侶は修行するのです。今日はどちらが正しいか?という視点で読むと興味深いエピソードを紹介します。

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真夏日に長旅をしていた二人の修行僧は、喉が渇いてどうしようもありません。すぐにでも水瓶を見つけて喉を潤したい一心で、道中を急ぎます。

二人はようやく飲み水にありつくことができました。一人目の修行僧がそこにあった柄杓で水を飲もうとすると、柄杓のなかに蟻が浮かんでいるのを見つけました。この修行僧は、喉が渇いているのに蟻のせいで水をすぐに飲めないことに、とてもイラつきました。

「あー、うっとおしい蟻め。水が飲めないではないか」
その修行僧は、蟻を摘まんで押しつぶし、水を一気に飲み干しました。

次にもう一人の修行僧も、柄杓で水を飲もうとしました。そうすると、また柄杓の中に蟻が浮かんでいます。そこでこの僧は考えます。
「蟻を気にせずそのまま水を飲むべきか、蟻を摘まみ出してから水を飲むか…。いや、こんな日は、この蟻もさぞかし暑いに違いない。蟻も生きるために必死に水を求めているのだ」

この僧は蟻を憐れみ、蟻を避けて水を飲みました。そして浮かんでいる蟻のために、水を全部飲み干さず、柄杓に少し水を残してあげました。

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一人目の修行僧は、「喉が渇いた。水が飲みたい」と自分の欲望を第一に考えます。また水への執着心が強く、蟻を押しつぶすことは道徳的とは言えません。

一方、二人目の修行僧は、蟻の存在が水にも柄杓にも自分にも害を及ぼさない方法を考え、蟻が可哀そうと思って蟻の命を重んじる道徳的な行動をとりました。

さて、皆さんはどちらの修行僧を支持しますか。二人目の修行僧のほうが正しいことをしたと、多くの方が思うのではないでしょうか。

二人目の修行僧のほうが、蟻への心配りを忘れず道徳的な行動をしたことを考えれば、一人目の僧よりも立派であることは間違いありません。

しかし実は、禅では二人とも間違っているとします。
なぜなら仏教における善行とは、道徳的か道徳的ではないか、といった分別による行為ではないからです。仏教は、どちらが良いかといった二者択一から離れた「無執着」を重んじます。

無執着になるためには、蟻と自分が一如になる必要があります。二人目の修行僧も、まだ「自分」と「蟻」が分かれており、「可哀想」という自分が有利な立場で哀れんでいる気持ちがあります。

例えば、川でおぼれている子どもを見つけた時の親を思い浮かべてみましょう。親は、川の深さがどれくらいとか、流れが急だとか、助けるべきか助けないべきかなど色々と考え悩まずに、瞬間的に川に飛び込んで子どもを助けるはずです。親が子どもを助ける前に、自分の行動が道徳的かどうかなど考えたりしません。

仏心とは、まさにこうした親から子への無条件の愛情と同じで、そこには道徳的か否かといった分別は存在しません。 無執着とは、「良い」(道徳的)・「悪い」(非道徳的)と考えずに、自然と迸る行為でなければならないのですね。


 


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