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山本文緒『無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記』(毎日読書メモ(513))

2021年10月18日、山本文緒さん逝去の報を知り、半泣きで山本さんの思い出を語る(ここ)。死の直前に刊行された『ばにらさま』、それよりも、著作のタイミングとしては絶筆に近い『自転しながら公転する』を読み、都度、わたしは山本文緒を喪ったんだな、という悲しさに浸ってきたが、今度こそ極めつけ、『無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記』(新潮社)は、2021年4月にすい臓がんのステージ4bの診断を受け、それから僅か6ヶ月で亡くなるまでの山本さんの日記。
大野八生さんの装丁の美しさにも心惹かれる。ミモザや、赤い実のなる木と、小鳥たち。
どのページをめくっても、宣告された余命(半年と言われ、セカンドオピニオンを貰いに行ったら4ヶ月と言われる)に抗うすべもなく、夫と自分、無人島に二人きりで流されたように、コロナ禍の中、軽井沢の自宅で、終活のような動きを続ける。がん宣告を受けた後、一度抗がん剤治療を受けて、それがあまりにきつくて、緩和ケアに進んだ、5月下旬からの日記で、彼女は既に、自力で生活を成り立たせることも出来なくなっている。
当時はやっていた「100日後に死ぬワニ」になぞらえ、自ら「120日後に死ぬフミオ」って本を書いたらバズるかな、と自虐的に考えたり。ワニは交通事故で死ぬので、自分がその日に死ぬことは知らなかったけれど、フミオはその120日間をカウントダウンして生きるのか。
吐き気や睡眠障害や痛みに苦しみ、食事の摂取量も減り、自分一人では外出もできなくなっている中、日記を書き(手書きの日記を、のちにパソコンに転記して、原稿にしていたらしい。途中からは音声入力も試し、更に体力がなくなってきたら夫が代理で入力して)、見舞いに来た編集者たちが、その日記、本にしましょう、と色めきたつが、自分はその本の刊行を見ることが出来ない、とわかっている切なさ。『ばにらさま』(文藝春秋)の刊行日が決まったのも、自分はそれを見られるのか、とドキドキする(実際には見ることが出来た)。苦しそうだけれど、コンスタントに色んな本を読んでいて(小説中心...わたし自身が主に小説ばかり読んでいるので、この読書記録は大変興味深く、言及されていた本をこれから読もうと思っている)、「死ぬことを忘れるほど面白い」(p.28)とか、「未来はなくとも本も漫画も面白い。とても不思議だ」(p.66)とかいった表現に、わたしも死ぬまで、ああ、この本が読めて幸せだったなぁ、と思いながら生きたい、と強く共感する。

電車の中で読みながら、携帯にメモした印象的な文章。

思い出は売るほどあり、悔いはない。悔いはないのにもう十分だと言えないのが、人間は矛盾しているなと思う。

p.84

でもどんな人でも自分のデッドエンドというものは分からないものだ。この期に及んでまだ私はデッドエンドを摑めていなくて、安くなったパジャマを買ったりしている。

p.96

余命宣告を受ける、って、想像を絶する恐ろしさだと思うのだが、その恐ろしさを言語化することで、自分を客観視している。作家の業みたいな。

9月21日に

変なたとえだけど、飲み屋の一次会がそろそろ終わりに近づいているというか、この日記もこのあたりで中締めさせてもらえたらと思っています。まだ飲み足りない(読み足りない)人のために、二次会的な何かをだらだら書くかもしれませんが、一回このあたりで切り上げさせて下さい。

p.160

と書いていて、その後は4日分しか記載がない。そして、その4回の間に、思考のろれつが段々回らなくなってきているのが読みとれる。胸を突かれる。
最後の日記が2021年10月4日、そして10月13日に山本さんは亡くなっている。日記の中で、多くの医療従事者との会話が再現され、会っておきたい人と会ったり、ケアマネージャーさんと面談して、こういう人と会うのは親の介護の相談をする時だと思っていたのに、自分が先にお世話になることになってしまった、とつぶやいたり、明確な余命宣告と共に生きるために、心をどれだけ強く持たなくてはならないのか、と、さらさらした文章に潜む強い芯を思う。

お別れだけれど、あなたの本がある限り、きっとお別れではない。
また、あなたの本を読む。

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