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『わたしのなつかしい一冊』から、『オオカミに冬なし』、そして『時の旅人』へ(毎日読書メモ(523))

池澤夏樹・編 寄藤文平・絵の『わたしのなつかしい一冊』(毎日新聞出版)、先にシリーズ3冊目の『みんなのなつかしい一冊』を読んでいたのだが(感想ここ)、1冊目に戻ってきた。毎日新聞に毎週土曜日に連載されている「今週の本棚」という企画をまとめたもので、それぞれの本に50冊の「なつかしい本」が紹介されている。

『わたしのなつかしい一冊』で取り上げられた50冊のうち、読んだことがあったのは15冊。そしてこの本で紹介されていたのをきっかけに、もう2冊読んでみた。企画人池澤夏樹が紹介した(だから巻頭に置かれた)クルト・リュートゲン作、中野重治訳『オオカミに冬なし』(上下、岩波少年文庫)と、江國香織が紹介したアリソン・アトリー作、小野章訳(わたしが読んだのは松野正子訳なので別の版だ)『時の旅人』(わたしが読んだのは岩波少年文庫、江國さんが読んだのは評論社刊)。

『オオカミに冬なし』は「実地にあった話」に基づいたフィクション。原典はドイツ語らしいが、中野重治の訳文がすばらしい。今となっては言葉回しが古臭いのは確かだが(上巻は1959年、下巻は1960年刊)、読み進めると、訳文を舌の上でゆっくり転がしたくなる味わい深さがある。
副題が「グリーンランドとアラスカとのあわい、ある不安な生活の物語」あとあり、更に巻頭には、

この本に書いてある
いろんな人間、いろんな出来ごとは、
つくりものではありません。
一八六七年から六八年にかけてはラブラドルで、
一八七一年から七三年にかけては、グリーンランドとデーヴィス海峡とで、
一八九三年から九四年にかけてはアラスカで、
ほんとにあったことの報告によって書いたものです。

上巻p.7

とある。
物語は1893年9月、例年より北極海の結氷が早く、北極圏にいた捕鯨船団がアラスカの北の果て、バロー岬で凍結され、帰還せず、275人もの船員たちが脱出のすべもなく北の海に閉じ込められているらしい、というところから始まる。
アメリカ政府の命を受け、救出に行くことになった文化人類学者マッカレン、アル中気味の船員ジャーヴィス。この二人がどうやって北に向かい、救援物資を、飢えかけた捕鯨船団の元へ届けるか、という冒険譚。冒頭の紹介によると、アラスカのエピソードは一番最後のエピソードみたいだけれど?、と思ったら、物語が入れ子になっていて、このアラスカの冒険の中にグリーンランドとデーヴィス海峡、そしてラブラドル(カナダ北部)のエピソードが効果的に挿入されている。
寒さ、飢え、現地で雇うイヌイット(刊行年次でわかるように、イヌイットではなくエスキモーと書かれているけど)との相克、悪天候に阻まれた遅々たる歩み、犬ぞりの制御。マッカレンとジャーヴィスの価値観の違いによる対立と歩み寄り。二人は寒さをしのぎならとことん対話する。その中で、過去の冒険譚(失敗に終わった北極点到達の探検から、アメリカ人たちを救出したエスキモー=ジョーのあっと驚く冒険、そして更にもっと昔にラブラドル地方の幻の大滝をもとめて川をさかのぼった冒険家の切ない末路)についても語られる。
それぞれの冒険を説明するシンプルな地図が本の中に挿入されていて、読みながら何回も何回も眺める。知らない世界が、地球のずっと上の方に広がっている。
読んでいるととにかく寒い! この本を読んだ後、冬の夜間に走りに出て寒さに震えても、いや、ジャーヴィスとマッカレンが体験した寒さ、捕鯨船に閉じ込められた船員たちや、北極点近くから命からがら逃げてきた探検家たちが体験した寒さに較べたらへでもないよな、と、妙な比較をしてしまうように。
そして、『わたしのなつかしい一冊』で池澤夏樹が書いているように

むかし読んだ時はもっぱら冒険の細部に目が行っていたと覚えている。改めて読み返してみて、作者の力点がむしろ倫理にあることに気づいた。二人の男、ジャーヴィスとマッカレンは何百キロも北で餓死を待つ二百人の見知らぬ男たちを救おうという、誰もが無理だと言う試みに立ち上がった。ジャーヴィスは過去に勝手な冒険心から負った心の傷を抱えている。旅の途中でも目の前で死にかけている人や犬を救うか、あるいは大義である二百人の救出のために先を急ぐかという選択、今で言うところのトリアージュを迫られる。こういう問題をめぐって二人の男が荒れ狂う吹雪のテントの中でひたすら議論する。

『わたしのなつかしい一冊』p.14

その、寒さや痛みにくじけることのない、不屈の精神が、遠く離れた場所でぬくぬくしている読者の心を打つことに、我ながら驚く。

そして『時の旅人』、これは20世紀前半のロンドンに育った病弱な少女ペネロピーが、療養のため転地したダービシャーの親族の屋敷で、16世紀の同じ屋敷にタイムトリップしては現在に戻ってくる、理屈のないタイムトラベルを扱ったファンタジー。当時の屋敷の主は、エリザベス1世と対立したスコットランドのメアリー女王に服従し、メアリーをフランスに逃がしてあげようと画策している。20世紀から来たペネロピーには、その企てがうまくいかないことはわかっている。それを16世紀の人たちにどう伝えるか、伝えていいのかの葛藤。
幻想的な、20世紀と16世紀との接点。突然やってきた見知らぬ少女を下働きに使うことをいとわず付き合ってくれる人々。読み書きができるから、と、屋敷の主の家族とも接点を持つようになり、みんなに愛されるペネロピー。自分が口出しすることで歴史を改変することになるかもしれないという恐怖と、わかっている末路を伝えられない葛藤。描かれた田園風景の美しさと供される料理の魅力。
江國香織は「私は二十歳のころに読み、この世界から現実に戻りたくないと思ったものだったが、今回読み返して、またそう思った」と書いている(『わたしのなつかしい一冊』p.22)。
理屈なく時空を超える移動は、20世紀の生活の中にふっと16世紀の人が顔を見せたりといった不思議体験からすーっと過去に入りこんでいったりしていて、それを自然に受け入れるペネロピー、そして、幻視体験をして、また現在に戻ってくる少女を、茶化さず受けとめる周囲の理解。矛盾なく融合される歴史と今。
その物語の美しさは、これまでに読んできたファンタジーと、一線を画すものがあった。
洋服だんすの奥にある雪のナルニア、とかとはちょっと違う。ペネロピーが吸うダービシャーの空気の中に、20世紀と16世紀が混在し、どちらにも愛さずにいられない光景がある。
子どもの時に出会えなかったのが残念な一冊だった。一方で、英国史をある程度理解した今だから感覚的に理解できる部分もあるのかな、とも思った。

色々な人のなつかしい本の話はどれもいとしい。
教えてくれてありがとうと思いながらひもとく本の魅力にうっとりする。

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