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桐野夏生『とめどなく囁く』(毎日読書メモ(377))

書店の店頭で、文庫化されている桐野夏生『とめどなく囁く』(上下・幻冬舎文庫)を見かけて、あ、まだこの小説読んでないな、と思ったので単行本(幻冬舎)を借りてきて読んでみた。文庫を分冊して刊行するだけあって、2段組でぎっちり書かれた444ページ。

桐野夏生の作品、ディストピア的だったり、社会の底辺にいる人を飾りっけなく酷写したりしていて、読む前から息苦しい気持ちになることが多いが、この小説はちょっと風合いが違って、自分の親世代の男性と再婚同士で結婚する早樹さきの一人称小説。釣り好きの夫庸介が、一人で海釣りに行って、三浦沖で消息を絶って、7年。その間に仕事を通じて知り合った、ゲーム会社の社長(その後会長に退く)の克典は、自分の留守中に妻が脳溢血で倒れ、亡くなってしまっている。それぞれに配偶者を喪った早樹と克典の結婚生活。早樹は子どもがいなかったが、庸介の母とは今でも連絡を取る仲。そして克典の3人の子どもとの関係。逗子の山の上の高級住宅街の屋敷と広い庭、毎週手を入れに来る庭師たち。庭師が知り合いの彫刻家に斡旋を頼まれて置くことになった巨大な石のオブジェ。

優雅なようで不穏な要素もある早樹の生活は、どうも「満ち足りた」という感じがしない。そして、庸介の母から「庸介を見かけた。庸介は生きているのではないか」という連絡があったことで、早樹の生活は、目に見えない位ひそかに、しかしじわじわと崩れていく。
一人で船で沖に出て、無人の船だけが見つかったという状況で遺体も見つかっていない庸介は本当に死んだのか? 事故時に捜索に尽力してくれた友人たちと再度連絡を取って、早樹は自分が当時知らなかったことが予想外に多かったことに唖然とする。
ライターをしていた早樹は、克典との結婚で実質、仕事をしていない状況になっており、彼女の世界は不思議な位狭くなっている。彼女自身の友人はたった一人しか登場せず、その美波については詳細に語られるが、庸介の消息不明に美波が関わっているのではないかと、疑心暗鬼になる早樹。

41歳で、夫が失踪して7年の死亡宣告を受け、年上で超金持ちの男と再婚するという数奇な運命を辿ると、過去の人間関係はリセットされてしまい、自分のよりどころとなるコミュニティは消失してしまうものなのか、と早樹視点の三人称小説で丹念に描かれる彼女の生活のよるべなさにある意味恐怖をおぼえる。一寸先は闇、という体験をしてきたのに、この、また何か大きな変動があったときに彼女が持ちこたえられるのかわからないような不安定な状況は一体何なんだろう、と思わずにいられない。ぱっと見の生活の優雅さと、夫との信頼関係は、永遠ではない、ということを思うと、読んでいるわたし自身のふだんの生活だって、勿論どんなきっかけで瓦解しないとも限らない、ということを考えずにいられなくなる。

不安の上塗り、いなくなった前夫への不信感。そして克典の娘との新しい関係、そうした不穏さがどんどん重なって、この小説は一体どこへ行ってしまうんだろう、と思った、最後のほんの10ページで、あっと驚かされる結末がつけられる。新聞小説だったようだが、毎日少しずつ読み進めてきた読者はここのくだりで、あ、と大声を出さずにいられなかったのではないだろうか。
赦すとか赦さないとか、それを決めるのは誰だろう。そして、赦されたいという願望は存在するのだろうか。大きな惑いの中で、物語は終わる。本当の物語はここから始まるのではないか、という予感をおぼえつつ。


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