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星野博美『世界は五反田から始まった』(毎日読書メモ(489))

2022年の大佛次郎賞を受賞した、星野博美『世界は五反田から始まった』(ゲンロン叢書)を読んだ。大佛次郎、とか言われると、遠い昔の偉い人みたいな感じで構えてしまうが、過去の大佛次郎賞受賞作には、角幡唯介『極夜行』(文藝春秋)とかもあって(感想ここ)、「形式を問わず優れた散文作品に贈られます」という趣旨は、決して肩ひじ張った作品を称えるものではない、ということが、本作を読んでよーくわかった。
きちんと感想をまとめたことがないようで、このnoteの中に、過去に読んだ星野博美作品の感想は残っていないが、最初に読んだのが『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫、大宅壮一ノンフィクション賞)、その後『のりたまと煙突』(文春文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社)、『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』(文春文庫)など、色々な視点から自分の体験してきたことを俯瞰する、冷静と情熱を兼ね備えた文章に圧倒されてきた。島原の原城址に行った時は、星野さんと一緒に弾圧されたキリシタンを思って慟哭し、自動車の免許を取るのに難儀している姿を読んでは「友よ!」とジャイアンのように語り掛けたくなったりする親近感。『世界は五反田から始まった』の冒頭に、自宅(戸越銀座)から高輪の清正公に初詣に行く様子が描かれ、そこに「うちの車庫から右折二回で到達する」と書いてあって、そうそう、目的地までに何回右折をしなくちゃいけないか、って、運転苦手な人にとってはすごく大事、と思い出す。

祖父、父が経営してきた大五反田の町工場の歴史と、祖父の出身地、房総半島の御宿、戦時中に祖父が家族を疎開させていた越谷(関東平野のど真ん中のように思える越谷が、大五反田に住む祖父にとっては疎開の候補地となるのか、という驚き)それぞれの地縁、そして昭和20年5月の空襲でほぼ焼け野原となった荏原区(現在の品川区は品川区と荏原区に分かれていて、荏原区の被害が甚大だった)で生きていた人たちの物語、それが、地域の図書館で読むことの出来る地史を丁寧に読み解くことで蘇り、その中核に、作者が子どものうちに亡くなってしまった祖父が、晩年書き綴っていた手記が鎮座する。残念ながら癌の進行が早く、書き残そうとしたことすべてが残っているわけではないようだが、自分を可愛がってくれた祖父の思い出と、家族の記憶の中に残っている祖父、そして今でも現役で使われている、星野製作所が製造していたバルブコック。

大五反田、というのは作者の造語。五反田駅を中心として、半径約1.5キロメートルの円を描くと、星野家の行動範囲がすっぽり入る。北端に、初詣に行く清正公、それから家族のかかりつけのNTT東日本関東病院、祖父は房総から五反田の工場に丁稚奉公で入り、その後独立して戸越銀座で星野製作所を開く。ケの食事は戸越銀座で、ハレの食事は五反田まで行く。本の冒頭に大五反田の地図があり、縮尺が書かれていないので、ちょっと距離感がわかりにくいのだが、大五反田の円の中に、JRだと品川、大崎、五反田、目黒。それに大崎広小路、戸越、戸越銀座、不動前、武蔵小山まで入る(ぎり円の外になる荏原中延になると、作者の観念の中でも圏外)。
祖父の手記から始まり、様々な資料を読み解いていくにつれて、大五反田は軍需産業の片棒をかついで成長してきたことを実感し鼻白む。一方で小林多喜二や宮本百合子の小説にでてくる共産主義者たちの姿に驚いたり、戦時中武蔵小山の商店街の店主たちが、商業では食べていけなくなり満州開拓団に行った経緯を知るにつれ胸が締め付けられたりする。山田風太郎『戦中派不戦日記』への言及などもある。大五反田は文学的にも包含するものが多い。

昭和20年5月24日の大空襲で星野製作所もすべて燃える。その日たまたま家族の疎開先の越谷に行っていて、命拾いした祖父は、翌日には戻ってきて、自分の住んでいた土地に杭を打つ。この経験を孫娘に語ったことが、この本の原点になったようだ。
「ここが焼け野っ原になったらな、すぐに戻ってくるんだぞ。家族全員死んでりゃ仕方がねえが、一人でも生き残ったら、何が何でも帰ってくるんだ。わかったな」(略)「そいでもって、すぐ敷地の周りに杭を打って、『ほしの』って書くんだ。いいな」(pp68-69)
祖父母と同居していなかったこともあり、わたし自身はこんな風に祖父母世代の人から語られた記憶がない。自営業者としてたくましく生き延びることと、生まれ育った地域の歴史が、作者の中で融合して、こんなにも力強い記録になるとは。
この本はあえて系統的であろうとはしてないように感じるが、自分自身、そして家族の歴史を掘り起こす作業が、大五反田で生きてきた人々の姿を色々な角度から再現することに結び付いていて、コロナの時代、出かけられずに近場で活動しながら、その近場をぐっと掘り下げることとなった経緯が鮮やかに描かれている。これまでの著作に描かれてきた香港での人々との交流とか、五島列島で運転免許をとった経験とか、作者本人の歴史すべてが大五反田の歴史と融合している。勿論それは彼女自身の見た歴史であり、ひとりひとりの大五反田住民に、それぞれに見えている歴史や現実があるんだけれど、それをこうして整理された形で読ませてもらえるというのは、稀有な体験のように思える。

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