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中島京子『うらはぐさ風土記』(毎日読書メモ(539))

中島京子の新刊、『うらはぐさ風土記』(集英社)を読む。2022年11月から2023年7月に「小説すばる」に連載されていて、2024年3月に単行本刊行。
うらはぐさは架空の地名だが、著者の母校である東京女子大学がある西荻窪近辺をイメージして書かれているそうだ。

うらはぐさ、は風致草ふうちそうとも呼ばれる、イネ科の植物。
古くからある地名だが、この植物の花言葉は「未来」。

そして、タイトルの「風土記」は井伏鱒二の『荻窪風土記』をイメージしている。主人公田ノ岡沙希が、アメリカから30年ぶりに帰国して、伯父の持ち物である家を従兄から借りてうらはぐさの住民となり、自分の母校である女子大学で教鞭をとることになる。大学生の頃も、時折遊びに来たり泊まったりしたこともあった伯父の家、血のつながった伯母は既に亡くなり、伯父は、2年前から従兄が住む名古屋の介護施設に入っていて、コロナ下、面会もままならない状態。
手探りで、30年ぶりの日本生活を始める沙希が出会った人々との交流、庭の植物、消息不明の大学時代の友人が今どこで何をしているのだろう、と思いめぐらしていると、夢の中で再会する。浮世離れした感じのするうらはぐさでの暮らし、昔からある焼き鳥屋「布袋」に通い、その店のあるあけび野商店街の変わったこと変わらないことをそれぞれに受けとめる。

悪人の出てこない小説。沙希は、アメリカ人の夫の不貞で離婚し、同時に、長く働いていた大学の日本語学科が閉鎖されることとなったため帰国して、日本の大学で与えられたポジションも2年の期間限定なので、不安を抱えた新生活だったが、伯父の家の玄関に生えている「しのびよる胡瓜(Creeping Cucumber)」に心ひかれ、伯父が不在となったこの2年間も庭の整備をしてくれていた高等遊民の秋葉原さん、そしてその妻の刺し子姫と親しくなり、2人の住む家の屋上の畑から臨むうらはぐさと夕陽の光景にしみじみする。
大学では、不思議な敬語を使う学生マーシーに慕われ、マーシーとその友人パティはいつしか沙希の家に出入りするようになる。マーシーは大学の学園祭の弁論大会で、うらはぐさの歴史について語り、かつてうらはぐさにあった飛行場から特攻部隊が出陣して行ったこと、大学の建物を設計したアメリカ人建築家が、アメリカで日本家屋を再現した建造物を建て、それで米軍が空襲のシミュレーションをしていたことなどを語っている途中で、過呼吸になって昏倒する。

「え、うらはぐさの歴史って、こんなに戦争と繋がってるんだって思って。いや、だからそれは、もちろん、日本中が戦争してたし、世界中が戦争してたから、驚くようなことじゃないんだけど、つまり、わたしが言いたいのは、戦争するってことになっちゃったら、もう、生活はふつうじゃなくなるっていうか。あ、それも、当たり前ですよね。戦争ってそういうことでしょうって、頭では理解できても、気持ちがついていかないっていう。それで、そのことを知ってから、いろんなものが違って見えるようになってきちゃったんですよね」

p.83

物語の世界は穏やかで平和そうなのに、それは危機と隣り合わせである、という不安。
日常の中に戦争が入り込んでいく様子はかつて、中島京子の直木賞受賞作『小さいおうち』(文春文庫)で語られていたな、と思う。あれもまた、西東京の物語だった。
沙希をめぐる環境もおだやかで、自分の学生時代から変わらないものを愛しみ暮らすが(伯父の物置にあるお酒を持ってきて、自分で用意したつまみと一緒に愉しむシーンが、ささやかなのに贅沢に見える)、再開発の波がうらはぐさ、そして秋葉原さんの店や「布袋」のあるあけび野商店街に押し寄せる。そして、沙希の境遇にも。
外から来る大きな力に対して、中にいる弱い個人は何が出来るのか。それを静かに語る物語。紐帯、という言葉を思う。
コロナ禍の記録にもなっている。刺し子姫はコロナに罹患してホテル療養に行く(もはや懐かしい響き)。家を貸してくれている伯父に挨拶に行きたいのに、施設では家族の面会すら滅多に認めてくれていなくて、沙希はオンライン会議システムで伯父と会う。認知症で話もかみ合わない伯父に、あけび野再開発の不安について語り掛ける沙希。伯父はこう言う。

「まあねえ、わたしに言わせりゃ、こういうことだ。いいもんにあれしなさい。なんでもね、いいもんにあれしなさい」
「いいもんって?」
非常に意味のある言葉が発せられたように思い、沙希は問い返す。
「それは、まあ、あれするしかないなあ」
「あれって?」
「それはそのう、あれだわな」
伯父は続けて、
「そんなところでひとつまあ、それではみなさん、さようなら」

p.188

いいもんにあれすることを考え続ける沙希。
あけび野商店街の再開発を「テセウスの船」に例えるマーシー。
秋葉原さんの作る野菜を小学校の給食に取り入れられないか考える校長先生。沙希の同僚研究者とその同性パートナーの新しい暮らし。

沙希に大きな転換点が来るが、それは、そこまでの緩やかな時間の流れの中で蓄積されてきたもので、いいもんにあれすることが出来るようになる。あけび野の再開発もまた、いいもんにあれすることになる(ようだ)。
ハッピーエンドであることを書いたとて、それはネタバレとは言うまい。

この風土記はここで終わるのかもしれないし終わらないのかもしれない。沙希は、もう20年も消息不明だったサークル仲間の大鹿マロイと会えるのかもしれないし会えないのかもしれない。
大きな脅威は、中からの小さな力の寄せ集めで、なんとかすることも出来るのかもしれないという希望を与えてくれる本だった。気持ちのいい読書だった。

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