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滝口悠生『水平線』(毎日読書メモ(485))

滝口悠生、前に読んだ『長い一日』(講談社)がよかったので(感想ここ)近刊の『水平線』(新潮社)を読んでみた。雑誌「新潮」に2019年から2022年にかけて連載されていたものを改稿した単行本。主要な登場人物、横多平と三森来未くるみという兄妹と、その先祖たちを中心とした物語で、テーマは硫黄島である。
硫黄島。わたしは映画「硫黄島からの手紙」とかは見ていないので、わたしにとっての硫黄島は、梯久美子『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道 』に描かれた、本土攻撃の要衝となることが容易にわかるために、なんとか死守しようとして、結局ついえた要塞としての硫黄島だが、この本の硫黄島はそれより前の硫黄島、住民たちが農業や漁業に従事し、生産活動を行い、しかし、米軍の攻撃の激化により、全住民が強制疎開となった、住む場としての硫黄島である。

【この先結構ネタバレあります、まっさらな気持ちで読んでみたい方は注意】
そんなに複雑な家系図ではないが、物語が先に行ったり戻ったりするので(『長い一日』も時制が進んだり戻ったりしながら少しずつ物語が進んでいたので、作者のそういう書き方に慣れてきた)、途中でメモを取りはじめ、出来事の年月をメモしたりしつつ読んでみる。平と来未の母の両親、三森和美とイクは昭和15年に結婚、昭和19年に最初の子勇をなすが、同年7月の空襲で村落が壊滅状態となり、住人たちは内地への疎開を強制される。和美の両親、イクの両親と妹の皆子、和美・イク・勇は内地にわたり、親族の住んでいた伊豆で新しい生活を始めることとなるが(そこで生まれた2人の娘のうち下の娘が平と来未の母だ)、和美の弟の達身たっしん、忍、そして友人の重ルは、軍属となり、島に残って軍の仕事を手伝うこととなり、そのまま硫黄島陥落で戦死した。
最初は、平がおがさわら丸に乗って、父島に向かうシーンから始まる。2020年、オリンピック開催中の東京を逃れ、と言っても小笠原だって東京だ、というつぶやきが作中で何回か出てくる。2020年の東京オリンピック、と言われ、胸をつかれる気持ちになるが、何しろ雑誌連載が始まった2019年の夏の時点では、翌年の同じ季節に東京ではオリンピックが開催されていることを疑う人はいなかったのだ。で、物語の中の東京、小笠原ではパンデミックは発生していない、というところを、作者は物語の仕掛けに使うようになる。途中、父島滞在中の平は来未と電話で話したりするのだが、平の口ぶり(オリンピックから逃れて小笠原に来たけれど小笠原も東京だし)を聞いて、違和感を覚える来未は、マスクをして、職場のパン屋の営業の不安定さに悩みつつ、オリンピックは翌年に延期になったのに兄は何を言っているんだろう、と思う。
幾つものねじれが物語の中で発生している。平が父島に向かったのは、50年近く前、伊豆で家族と民宿「水平線」をきりもりしている途中で突然失踪し、行方不明になった皆子(平からみて大叔母)からメールが届くようになって、もしかして皆子は父島にいるのでは、と思ったのがきっかけだった。そして、来未の携帯電話には、「くるめちゃん?」と呼び掛けて電話してくる人がいて、それは、昭和20年に硫黄島で亡くなったはずの三森忍である。
500ページにわたる長い小説の中で、イクが語り、重ルが語り、皆子が語る。元硫黄島住民及びその親族が、墓参りのため、航空自衛隊の飛行機で硫黄島に日帰りで行く墓参事業があり、来未は平が父島に行くより15年も前に硫黄島に行ったことがあり、その体験なども語られる。その時、思い出した、航空自衛隊に就職したいと言っていた高校時代の同級生と、来未はその後再会し、付き合うようになる。三森忍さんが来未に電話をしてきたときに、その彼も忍さんの話を聞き、沖縄の海でその忍さんの操る舟に乗って釣りをしていると、父島で釣りに出た平と遭遇する(すみませんかなりネタバレ)のは、それまでの淡々とした物語展開からは考えられないくらいの動的なクライマックスである。
そして、時空のねじれは、巻末でもうひとつのクライマックスを迎える。戦前、2ヶ月に一度の本土からの船がやってきて、おまつり状態になっている島の様子がこまかに描かれ、学校で一番足の速い男の子が、一旦病気の母の様子を見に家に戻ってから浜に行こうとしている途中で、色々な未来の硫黄島の姿を目にする。そして拾った携帯電話に応答して、来未と会話する。彼の見た光景の中には、島の住人としてはありえないくらい立派な体躯の力士の奉納相撲があり、それは、1995年に戦後50年戦没者慰霊式典の一環として硫黄島を訪れた曙と貴乃花の取り組みだったようだ。

こうして物語を書いてみても、読んでいない人には伝わらないと思うけれど、硫黄島と言う、明治時代まで人が居住していなかった島に移住し、生活を築き、それを戦争によって根こそぎ奪われ、結局戻ることの出来なかった人たちの息づく思いを、こんな形で体験することが出来るとは。戦争の恐ろしさとか、水源の少ない南の島の生活の苦しさとかは殆ど語らず、でも、奪われた人の哀しみが、わたしの掌の上にある、そんな読書だった。

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